オトナの見解

大好きなゲームをしていたいがイイ大人ともなると酒でも飲んでいないと心情的にやりにくい。
しかし酒を飲むと今度は身体がゲームを拒絶する、というジレンマに陥るといった内容が前回であった。
 
その最後にした「昨今のゲームの進化そのものが、自分にとってはある意味で“大幅な退化”に繋がっていたことに気がついてしまった」という問いかけは、前々回の“ラジコン遊び”の要素と絡んでくる。
 
オトナの〜シリーズ最終回は空想力と妄想力、昔のゲームと最近のゲームについての違いについてをまとめてみた。 
 

ラジコンのみならず子供時代のオモチャでの遊び方は実に多岐に渡る。
「本隊とはぐれてしまい孤立無援となった小隊が敵偵察機の飛び交う荒地の中なんとか隠れてやり過ごす」
…そんな空想をしながら戦車を葉っぱなどで覆いカムフラージュをする。
さらにダンボールなどの廃材を使って格納庫を作ったり、すぐに反撃ができるようにと砲身の先だけをチョロッと見せたりしつつ、公園の外を歩いている近所のオバサンを敵兵に見立て、ついでに自分も隠れたりする。
 
戦車のラジコンでありながらラジコンとしての遊び方以外の遊び方をすぐに思いつく。
一人の時はもちろんだが、トモダチ同士であっても特に断りを入れるわけでもなく遊び方をリアルタイムにどんどん変化・増幅・順応させていく応用力は、子供の持つ凄い能力の一つだと言えるだろう。
 
一方でオトナはそういった遊びをすることが苦手だ。
ラジコンは動かすものであり、それ以上でも以下でもない。
想像力なしのラジコン、それは動かしたい挙動の通りに動くだけの従順な物体でしかなく、当然すぐに飽きてしまう。 
また、ルールの改変には申請や全員の同意が必要であり実に煩わしい。
 
だからオトナは「タイムアタック」とか「予選から本戦」といった細かいルールの設定をしているのだろう。
そうしなければ面白さを見出せないのかもしれない。
 
これはオトナの階段を登った結果の副作用というべきか、あるいは人間として退化してしまったからなのか。
なんとも寂しい気持ちもあるが、💓夢見がちなオッサン💓というのもやや不気味であるので、ここは正しい退化の仕方なのかもしれない(笑)。
 
ところがそんな寂しいオトナであってもこの能力を十分に発揮させてくれるものがあった。
 
それが僕の中ではファミコンでありスーパーファミコンのゲームであったのだ。
念のためPS4や鬼のような性能のグラフィックボードを積んだPCではない。
 
 

当時のロービットのゲームは画面解像度も低く、派手な動きもできなかった。
現代っ子が見たらそれこそ「子供騙しもたいがいにしろ」と思うシロモノだろう。
 
僕がもっともハマったファミコンゲームの一つに「ウィザードリィ」という3Dダンジョンゲームがあるのだが、これなどはアニメーションの一切ないひたすら単調な迷路の中を、静止画像のモンスターと状況を説明するシンプルで短い文章、パラメーター数値の変化のみによる戦闘を繰り返すだけのゲームであった。
 
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自分の操るキャラクターや武器や防具にしても文字と数値のみ、絵的な描写は一切ない。
究極の一人称視点とも言える。
 
また一歩ずつ歩きながら広大な迷宮をマッピングするのもすべて手作業である。
 
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この手製マップは画像検索から拾ってきたものだが、当時はこうやって自分なりに迷路をアナログ的手法で解明していくのもこのゲームの楽しみの一つでもあった。
(僕はファミ通の特集記事のロゴを切り抜いて貼りつけたいかにも本物っぽいこのゲーム専用のマッピング用紙を自作してコピーして使っていた。紛失してしまったのが実に実に悔やまれる)
 
今の常識からすればあり得ないほどにチープであり、そしてやたら手間のかかるゲームだ。
 
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一方の最新ゲーム、例えば先月発売されたばかりの「ダークソウル3」の画面はこちら。
念のためこれは製品パッケージのイラストとかではない。
この画面のクオリティーがそのままゲームとして動いているのだ。
もう一度ウィザードリィの画面と見比べてみたまえ!(笑)
 
 
しかし、僕からすれば最新作の凄いゲームを遥かに凌駕するような“現実感”が「ウィザードリィ」にはあったのだ。あの画面で(笑)
 
6〜10階層に及ぶ複雑な迷宮は手製マッピングをしながらやりこむことで急速に構造を理解し道順を暗記するようになり、最終的には自宅から駅に向かうように、まるで住み慣れた街を散歩するような当たり前の感覚になる。
「さぁ今日も潜るか」とゲームの電源を入れたときの感覚は、もう一つの現実に侵入するような、まさに映画「マトリックス」のような感覚であった。
 
キャラクター同士の会話が脳内でされ、敵のエナジードレインに悲鳴を上げ、命からがら生還したときの「助かった!」と本気で思うあの感覚!
(尚、ウィザードリィはドラクエやFFのような「死ぬ=一時的戦闘不能」や、全滅したらセーブポイントからやり直しといったシステムではなく、ゲームの中でも蘇生に失敗すると永遠に死んでしまう“ロスト”というリスクがあったので、戦闘も移動も常に気が抜けなかった。)
 
そういった救済措置のない鬼ゲームデザインも“現実感”に大きく貢献していたに違いない。 
 

時は流れ現代のゲームは驚くほどの進化を遂げた。
 
僕がこよなく愛するROCK☆STAR社の「grand theft auto」通称GTAである。
 
ここ最近のゲームがどんな進化をしているのか興味のない人こそ、この予告編を見たらビックリするはずだ。
 
ほとんど映画なんである。
 
アクション映画の中のキャラクターを自分が受け持ち、物語に参加して進めていくようなエンターテインメントに進化している。
恐ろしいまでの表現力だとは思わないだろうか?
(しかもこれは2013年発売のPS3版で今となっては画質の劣るバージョン。PS4版はさらに改良された高画質になっている)
 
もはや空想力で補いながらゲームの世界観を脳内構築しながら進める遊びではなくなった。
 

 
しかし僕はこうも思うのだ。
見た目のリアリティーは比較するまでもなく現代のゲームの圧勝である。
それは疑いようもない。
 
だけども、トータル的に自分が感じるリアリティーとしてはどうだろうか?
僕には「ウィザードリィ」の地下迷宮の不気味な雰囲気、「ダンジョンマスター」の喉の渇きやダメージを負った時に死に物狂いでモンスターから逃げる際の自分の装着する鎧の重さのほうが遥かに現実的に感じる。
 
表現力がチープだったがゆえに、画面以外での脳内情報が実に多かったのだろう。
それに対して現代ゲームにはもはや想像力を巡らす隙間がなくなってしまっているように思うのだ。
 
GTAは素晴らしいゲームだが、あくまでも「最高のゲーム」に留まることとなり「自分の日常を侵食するような実体験」までには至らない。
 
 
8bitマニア、懐古主義という流れではなく、積極的に想像力を巡らせる目的でシンプルな構造にするというカタチ。
小説を読んで想像を巡らせるのともまた違う感じがするが、それがもっとも近い表現になるのかもしれない。
 
そう考えると、今のゲームは原作あっての映画化というよりも「いきなり映画化」のようなものになるだろうか。 
映画的表現が可能になったゲームは今までにないような魅力的なジャンルを生み続けているし、現代人としては当然この進化の方向を追求していくのは正しい。
  
正しいのだけれども…僕はあの頃の刺激的なゲーム感覚をまた味わってみたい。
子供の頃にあそこまで夢中になれた「空想を介した遊び方」を再びやってみたいのだ。
 
それがまたできるとしたら……酒も飲まずゲームにハマり倒れる日が再びやってくることになるのかもしれない。
 
表現力の乏しさを脳内で補完しながらイメージを増幅する旧来のゲームには、この先のエンターテインメントの大きなヒントが秘められているようにも思う。
 
想像力よ、爆発せよ!