月別アーカイブ: 2016年6月

あぁ勘違い〜2

前回のエントリーからTwitter上で発生したキュロちゃん騒動の事態収拾のときに「あれ?この感覚、前にも経験したことあるぞ?」とすっかり忘れていた恥ずかしい記憶が蘇ってきた。
 
ニフティサーブの電子会議室時代の頃だ。
 
「電子会議室」という言葉に聞き馴染みのない若い世代の方も多いかとは思うが、現在のネット掲示板の走りのようなサービスであり、ぶっちゃけ「もうちょっと上品な2ちゃんねる」とでも思えばよろしかろうか(笑)
(匿名ではなく固定IDでの発信となるのでシステムはTwitterやFaceBookに近い)
 
僕は当時「パセリ」についての議論を誰かとしており、結構な熱弁をふるっていたように思う。
 
誰も横槍を入れてくるようなこともなく数千人のROMのいる会議室でパセリについて語り続けた。
 
議論をした相手も熱いもの同士で友情を確認しあい「会話もそろそろ終了か」という流れになってはじめて第三者からレスがつく。
 
「あの…パセリじゃなくてセロリですよ。その曲名」
 
そうなのだ。僕は当時大ヒットしていたSMAPの名曲「セロリ」について熱く語っていたのだ。
 
なぜか僕はあの曲のタイトルを「パセリ」だと思い込んでおり、相手もなぜかそう思っていたらしく、話は食い違うことなく最後まで一致し続けていた。
タイトル以外。
 
なかなか恥ずかしい経験をし続けてきている人生でもあるが、へっちゃらだ。
 
 

前回に引き続き、ああ勘違いの話をしてみる。
 
子供の頃の恥ずかしい勘違いで「東名高速道路」と書いた時点でみなさんピーンときたであろうが、御多分に洩れず僕も当然のように「透明高速道路」だと信じて疑わないメルヘンチックな幼児だった。
 
近所に住むエイちゃんという先輩格の男の子が「俺この前親戚のオジサンの運転で透明高速に乗ってきたんだぜ!うん、本当に透明だった」とホラを吹いたのをどうしてウソだと見破ることができようか?
 
時代背景もよろしくなかった。
 
その当時の「未来予想図」といえばドリカムの歌詞とはまるで違うSF方向、どちらかといえばラルクの「未来世界」の歌詞に近いことがその大前提となっており、「え?まだ未来になってないのにもう透明な道路があるのか?」と幼稚園児のサイトー君が思ってしまったのも無理からぬことである。
 
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未来といえば“透明のチューブ”や“うかぶくるま”がテッパンである。
 
今となっては陳腐なイラストにしか見えないだろうが、昭和の子供はもちろんのこと、結構イイ歳のオトナも「未来はこうなる」と完全に思い込んでいたのである。
 
こういった「来なかった未来」の話をオトナになってから僕が大好きになったのも、幼少時代に読んだこれらの「なぜなにシリーズ」や「鉄腕アトム」が描いた強烈なインパクトが強く影響しているのだろう。
 
しかしこういった想像図イラストを改めてみると想像の範囲外の部分が当時のまんまということがわかる。
耳なし芳一じゃないけど、完全なる見落としといってもよい。
 
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透明なチューブは未来っぽいが、中を走っている乗り物や空を浮く車のデザインは50年代を彷彿させるクラシックなデザインだ(笑)。
着ている服の「未来っぽさ」もわからなくもないのだが、なぜこんなのっぺりした服になるのだろうか?
 
スチームパンクという言葉に代表される「来なかった未来」の話も僕は大好きなので、いつかジックリ書いてみたいと思うのだが、今回はそういった芸術性の話ではなくあくまでも「見落とし部分へのツッコミ」である(笑)。
 
これが結構ちゃんとしてそうなSF映画やアニメであっても迂闊な設定ミスというのが多くあるのが興味深い。
 
「200年後の未来の話」という設定の30年前の映画をみると、今よりも古臭いことが山のように出てくる。
 
先日も紹介した「エイリアン2」などは公開当時は未来の映画として何の違和感もなかったが、今見ると突っ込みどころ満載だ。
 
2179年という時代設定なのに、
○名刺をカードリーダーに入れると電話をかけるというのはちょっと新しいが、白黒のテレビ電話は固定型。
○コンピューターはグリーンディスプレイで8bit感に満ち満ちている。
○重火器の残弾数を示す表示が7セグメントのLED。
○ガムテープとか腕時計型の発信機とかよくよく考えてみるとちっとも未来っぽくない。
 
なんてことをたちまち思いついてしまう。
 
是非あなたの好きなSF映画で同じツッコミ遊びをやってみていただきたい(笑)。
 

そういった意味では「バックトゥザフューチャー2」や「ガタカ」といった映画は非常に頭の良いやり方をしていた。
 
「2015年に1980年代ブームが起こっていた」という感じで「カフェ80’」なんてお店があったり、タクシーや一般の車も空を飛ぶような未来型(これは2016年の今思えばだいぶ進みすぎていたが(笑))に混じってレトロなデザインの車も愛され続けているといった表現をしていた。
 
デロリアンが未来に走っていても違和感がないという説明にもなっていた。
 
「ガタカ」も昔のままの服や車が流行っている時代といった雰囲気で統一されており、レトロなデザインの車なんだけどもエンジン音のしない電気自動車、といった逃げ方をしていた。
 
そんなに有名じゃない映画なのだが、今思えば豪華キャスト陣に加えて「NASAが選ぶ現実的なSF映画」の第1位に選ばれている非常によくできた映画である。
 
 

話があちこちに飛躍してしまったので最後にまとめる。
 
透明高速ではなくて東名高速、東京と名古屋を結ぶから頭の1文字ずつを持ってきて東名というのが名前の由来だと知った時のガッカリ感は子供ながらに相当なものだったと記憶している。
 
なんだよ…東名って。
つまんないの。
 
そして後からくる恥ずかしさ。
幸い誰にもバレてないことだし、このまま一生胸に秘めて生きていこう。
という少年の決心も次々と時効となっていくようで、恥ずかしいことを思い出すたびに自虐的に話してしまうオッチャンになってしまうのでありました(´_ゞ`)ちーん 

あぁ勘違い

子供の頃の勘違いというものは、今思い出してみるとどれも他愛がなくて楽しい。
本来なら自分だけの秘密として封印すべきことなのかもしれないのだが、面白いので公開に踏み切ることにする。(…と言うほどたいしたことでもないけれども(笑))
 

僕は今も昔も「アジの開き」が大好物である。
ベストオブな朝食といえば、卵かけ御飯に大根と油揚げの味噌汁、焼き海苔とあまり酸っぱすぎない梅干し、それにアジの開きを主役に迎えたものだ。
温泉旅館の朝食は比較的こんな感じのバランスで出してくれるところが多く、とてもありがたい。
富良野や苗場のプリンスホテルの朝食バイキングでも、ほぼこのカタチを構成することができる。
 
なお、みなさんの朝食バイキングを傍目で見ていると「あれもこれもあれもこれも」といった感じで、まぁまぁ朝から元気だこと…と感心してしまうほどによく食べてますね(笑)。
いいんですそれで。
医食同源、よく食べよく健康であれである。
 
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さて、そんな大好物のアジの開きなのだが、僕は小学生の高学年ぐらいまでずっと「アジは平べったい魚である」と信じて疑わなかった。
つまり開いた状態のアジが元気に泳いでいると思っていたのだ。
 
無理もない。
アジといえばフライにしてもあの形状だし、たたきや刺身は原型を留めていない。
 
ヒラメやカレイといった実在する平べったい魚の存在もよくなかった。
よく見ればもちろん違うけれどパッと見は同じ、混乱を招くのも当然である。
 
僕は悪くない。……きっと。
 
しかし……真実を知った時、つまり開いた状態を閉じてみたらと想像した時、アジがごく普通の形をしているであろうことが脳裏に閃いた時の衝撃はただ事ではなかった。
 
あああああ!!
 
そんな恥ずかしい過去のあるアジの開きなのであるが、もちろん今後とも大好物であることに変わりはない。
 

同様に森永チョコレートでおなじみのキュロちゃんキョロちゃん。
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僕はずっとこの生き物を「セミ」だと思っていた。
 
なぜ自分にはそう見えていたのか?
くちばしと胴体の部分が羽根で足は見えてなかったらしい。
 
脳内変換された僕の中のキュロちゃんキョロちゃんはこんな感じだった。
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キュロちゃんキョロちゃんてセミに見えてなかった?」とおそるおそる聞いていた時期もあるのだが、例外なく気の毒な人そうな扱いを受けるのがイヤになって長らく封印していた記憶でもある(^^;
 
追記:Twitterで「あの〜キュロちゃんではなくキョロちゃんなのでわ?」という雨あられの指摘があり、今更スルッと訂正することもできなくなったので開き直って打ち消し加筆とする。あぁ勘違いをリアルタイムに極める(^^;
 

 
もう一つは主に言葉の響きから連想するイメージ的な勘違いといった問題の話である。
 
僕が子供の頃だった昭和40年代というのは、急速に経済が成長している時期ではあったけれども価値観や人間のあり方が全然そのスピードに追いつけていない時代でもあった。
 
貴重品だったモノが大量に出回り安価になっても、親の世代はどこまでも倹約に勤めた。
「めったに食べることのできないお菓子」「特別な時だけ食卓にのるご馳走」といったものがまだまだたくさんあった。
 
今思えばそのレア感やスペシャル感のない現代こそ面白みに欠けるとも思うのだが、例えば僕が幼少の頃に憧れていたお菓子の一つが「ドロップ」であった。
 
ドロップという呼び方はすっかり廃れてしまったように思うのだが、ドロップはキャンディーに近いお菓子だ。
しかし僕の頭のイメージでは「デパ地下にしか売っていない特別大きくて柔らかそうで鮮やかな色をした丸いお菓子」がドロップだったのだ。
 
画像検索をしてみたのだが、当時のイメージにピッタリのデパ地下お菓子を探すことができないのだが、かなり近いイメージがこの「ロクメイカン ローズジュエル」であった。
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しかし実際のドロップは「火垂るの墓」でもおなじみの「サクマ式ドロップ」に代表されるように、僕が勝手に思い込んでいたドロップとはだいぶ違うお菓子だ。
 
そんな僕だけの事情があって、今でも「ドロップ」という言葉を聞くと身体が「うまそう!」と反応してしまうのだが、これが困ったことに問答無用で「うまそう!」と思ってしまうのだ。
 
例えばレコーディング現場で機器間の同期を取るシンクロナイザーといった専門機器の規格に「ドロップフレーム」「ノンドロップフレーム」といったものがあるのだが、、、、「うまそう!」と思ってしまうのである(笑)。
特に「ノンドロップ」という言葉は特別にうまそうに感じてしまう。
 
同様にまるで関係ない「ドロップキック」「バックドロップ」といったプロレス技にも反応してしまう。
 
実際に今ドロップという言葉の持つイメージの高級菓子を食べたいか?と言われたらほぼ全く興味がないにも関わらず、それでも「うまそう!」と条件反射的に思ってしまうのだから困ったものだ。
 

他にも「ミルクセーキ」という、現代ではほぼ死滅してしまったのか?と思われるほど見かけなくなった飲み物が大好きだった僕は、「セーキ」という言葉を聞くだけで「うまそう!」となってしまう。 
 
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(ミルクセーキのイメージは圧倒的にお母さんが作っている最中の期待感が強い)
 
当然「21世紀」「世紀末」「聖飢魔Ⅱ」「世紀の大発見」なんて言葉でも「うまそう!」と身体が反応してしまうことにやはり困っている。
 
実際そこまで困っているわけでもないのだが、きっとこんな言葉の響きに反応しているのは僕だけなのだろうなぁ……
 
……いや!
 
きっとみなさんそれぞれに似たような困ったワードがあるはず!
 
もしもこれを読んだ方で「あるある!わたしもそういうのある!」と思った方は、問題のない範囲で教えてくださいな(笑)。
 
そしてそんな困ったことはなにもない!と思うあなた。
そういう人も世の中にはいるんです。
優しく見守ってくださいね(^^) 

ライフマスク

去年のハロウィンのときにかつてないほど大変なメイクをしたことをこのブログにも書いた。
 
 
僕のお題は映画「マッドマックス」に出てくる「イモータン・ジョー」の仮装だったのだが、数年前から映画業界の特殊メイクさんが参加してから完全に「仮装」の域じゃない本格的なメイクとなっていた。
 
この時に僕の顔のカタを取ってもらったのだが、そのカタでこの度ライフマスクを作っていただいた。
さらにイメージとピッタリな素敵な額縁と、某秘密結社を思わすようなアヤシゲな革製のいかすペンダントまでいただいた。
 
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(単純に1/1スケールのライフマスクなので自分とまったく同じ大きさである) 
 
そのどれもがなんとも不気味な雰囲気で、何度も凝視してしまうようなクオリティーである。
 
特殊メイクの岩倉さん、ならびにスタッフのみなさま、
 
ありがとうございます!
 
 
しかし……こういった機会があるというのもよくよく考えてみれば貴重な話だと思う。
 
カタをとってもらった時の閉塞感とかメイクをしているときの大変な感じというのも、案の定今となっては「あの時は大変だったなぁ」といった過去の話となってしまっているので、当然今の自分はつらくもなんともない。
 
貴重な経験が思い出として残ることだけでも素晴らしいことなのに、こういった手に取り見ることのできる物質として残ってくれるなんて(^^) 
 
 
家に持って帰ってしまうのももったいないので、しばらくは事務所に置いておいて、ことあるごとに人を脅かす用途に使いたいと思う(笑)
 

クリーピー 偽りの隣人〜フルボッコ編

映画にはいろんなタイプのものがある。
 
全ての作品がハッピーエンドで終わる必要はなく、例えばトラウマ級のバッドエンドだからこそ名作となり得る作品だってたくさんある。
 
最近の邦画だと「告白」などは鬱になりそうなバッドエンドであったし、古くは「ダンサーインザダーク」などは絶望的に救いのないラストで、鑑賞後30分は口がきけなくなるぐらいのトラウマ級だったが、どちらも素晴らしい作品だ。
 
 
作品に対して個々に「好き嫌い」があって当然だが、本来自分の好みで映画の評価をするべきではない。
 
という大前提を踏まえつつ、それでも好みの問題でなく万人にとって許されないと思えることがある。 
 
批判とはそういう部分に限定してするべきものなのだと思う。
 
※映画前半の比較的穏やかなレビューはひとつ前のエントリーを参照のこと。
 

「クリーピー 偽りの隣人」に関して思う大きく2つの不満点は…
 
○ 伏線を張っておきながらちゃんと回収してない
 
○ 含みをもたせた表現をしておきながらそのことをスルーしたまま
 
こういった消化不良の展開をされると結果非常にストレスがたまる。
「だったら最初から中途半端なことはしないでくれよー」と思う。
 
・何度再生しても何ヶ月経っても井戸から貞子のでてこないポンコツな呪いのビデオ
 
・分析能力が低すぎて当てずっぽうのことばかりいうレクター博士
 
・「犯人はこの中にいる…」と言いながら結局見たこともない犯人のオッチャンが隣の部屋から登場する密室劇
 
さぞかしどれも納得のいかない思いをさせられることだろう。
 
本作「クリーピー 偽りの隣人」は、そんな歯の隙間にひっかかってとれないアタリメのような、モヤモヤがやたら蓄積する恐ろしい映画でもあった。
 
このモヤモヤ感をネタバレなしで愚痴るのは非常に難しい(笑)。
よって今回もネタバレフィールドを早々に設けることにする。
 

 
 
 
 

納得いかない〜その1
 
本作の犯人はおおよその想像通り、香川照之演じる「西野」という男だ。
あからさまに怪しい挙動の数々に何度もゾクッとさせられる。
そんなことは映画を見る前から誰もが知っていることであるので意外性は全くない。
 
そこは問題ない。
 
だが、どれだけの確定要素であっても「こいつが犯人なのか」と決定づける描写はキチンと観客に提示するべきだ。
それが特にあるわけでなく、いつの間にかヌルッと犯人ということになっている。
「あ、あれ?」と違和感を感じずにはいられない。
「好きです。僕と付き合ってください」といった交際宣言もないままなんとなく進展していく恋愛ドラマのようなのだ。モヤモヤ。
 

納得いかない〜その2
 
「あの人、私のお父さんじゃありません……全然知らない人なんです!」という衝撃的なセリフにしても納得がいかない。
そもそもそんな大それた人物すり替え劇がどうして周囲にバレなかったのか?
そりゃそうだ。
ある日突然隣の家族のお父さんだけが違う人になったら、周囲が気がつくに決まっている。
 
ありえないからこそ、このセリフの不気味さと不思議さ、一体どんな謎が?と思わせるのだ。
 
当然このセリフの謎はそれ相応のトリックの種明かしというか、納得のいく答えを求められるのだが、、、
 
答えはなんと!
犯人はご近所付き合いが疎遠だったのでバレなかった!
なのである。
 
え?…いやちょっと待って。
えええええ!?
 
しかしどう思い返してみても、この異常な事態の説明は「もう一軒の隣人である田中さんが実に感じの悪いご近所さんだった」ということでしかされていない。
ご近所付き合いをしていない隣人だったら何が起きてもわからないのか?
まさに東京砂漠でありますなぁうんうん。……って納得できるか!モヤモヤ。
 
しかもこの隣人田中さんは「西野は人間じゃない。鬼だ」とか中盤で意味深なセリフを言う。
しかしそんなことを言われて気分を害されたのか、その夜に田中さん爆死。
西野を調べていた別の刑事さんも一緒に爆死!
 
死人に口なしというか、その調子で周辺の人を殺し続けていて今までよくバレなかったものだ。
というかこの辺りからもう「サイコパスの異常犯罪」からかけ離れていく。
都合が悪くなったらとりあえず殺しちゃえって感じなのだ。モヤモヤ。
 

納得いかない〜その3
 
警察が無能すぎる。
記憶を取り戻した少女が「犯人が家の前にいた私を上から見下ろしていた気がする」という一言で事件現場の隣の家を調べてみると死体がゴロゴロと出てくる。
失踪事件の起こった隣の空き家から死体がゴロゴロ?
6年間の長き歳月をかけるにはあまりにも発見現場が近すぎやしないだろうか?
人里離れた山奥ではない。隣の家だぞ?モヤモヤ。
 
 
また警察官の聞き取りや事件捜査は二人で行動が鉄則である。
単独行動で行方不明になったら大変だから、ということだけが理由ではないだろうが、一人ノコノコと犯人の家に赴くなんてことは間違ってもしない。
 
僕の大好きなサイコスリラーの傑作「羊たちの沈黙」ではジョディーフォスター演じるクラリス捜査官が犯人宅を訪ねてしまうといったシーンがあるのだが、やや設定が不自然ではあるものの「住民調査」という犯人探しとは違う別の任務遂行中にたまたま犯人に出くわしてしまうという描写がされていた。
しかも本来なら見落としそうな何気ない違和感から犯人と直感する優秀な捜査官としても描かれている。
 
ところが本作は実に無防備に犯人宅を刑事が単独で訪れてしまうんである。
しかも免許証とは明らかに別人の男であることを知りつつ、いかにも怪しげな鋼鉄製の扉を自ら開けて犯人の待ち伏せしている秘密の部屋に入ってしまうのだ。
かなり間抜けである。
今日日のスズメだってそんな簡単な罠にはひっかかってくれまい。モヤモヤ。
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しかもそんな間抜けな刑事が1人だけではなく、なんと主人公含む3人!
3人全て単独行動をしてことごとく同じ罠にかかるのだ。モヤモヤ。
(鉄扉を開けるときにガラガラと響く音が印象的なのだが、その重い音も3回目あたりで完全なるギャグになっていた)
 
しかも笹野高史演じる年配刑事はこの鉄扉を開けた後、まさにスズメの罠並みの落とし穴に落ちてしまうトドメ付である。
 
ドイツの映画祭ではその瞬間大爆笑が起こったそうだ。
 

納得いかない〜その4
 
「偶然気がついたんだが、西野の家と俺の家が6年前の事件現場と同じ配置なんだ。調べてみてくれ」
高台から撮影した写真で共通点を見つける主人公高倉。
 
そして物語終盤でも犯人は高台から街並みを望遠鏡で眺め「見つけた。同じ配置だ」と新しく住む家を特定するのだが……
 
家の配置による犯行の手口?なんだか不気味である。
 
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3軒の家と家の間にある広めのスペース。
普通の住宅街では見かけない配置であることは確かなようだが、その配置によって犯人はどんなことができるのか?
 
盗聴?監視?
 
そのどちらもやっていそうな気もするのだが、例によって説明は一切されないまま映画は終わってしまう。モヤモヤ。
 
 
記憶を失っていた謎多き少女も結局は隣の家を調べたら死体が出てきた以外にはこれといった伏線の回収をするわけでもなく、いつの間にか出てこなくなる。モヤモヤ。
 
こんなところだろうか?
 
あ!思い出した!あと最後に一つだけ!
この映画、とにかくセリフの音量が小さく音質もくぐもっていて非常に聞き取りにくい!
 
爆音に慣れ切ったやや難聴傾向のある中年ミュージシャンには少々厳しく、それゆえに物語の詳細を聞き落としていることもあっての物語の理解度が低かっただけの話かもしれないがやっぱりそんなことはない。
 
 

以上!
またかなり長くなってしまったが、今回発見したことがある。
酷評レビューを書くのは絶賛レビュー以上に下調べや慎重な言い回しに気を使うのでより時間がかかる。
 
それゆえに作品の理解度はグンと増す。
実のところ調べているうちに実際自分の理解度が足りなかっただけのことや、「あ!そういうことか!」と発見したことによってモヤモヤを訂正したり削除したりも結構あった(笑)。
 
そして、ここまで筋道立ててモヤモヤを整理していたらいつの間にかかなりスッキリすることができているではないか!(笑)
 
なにより原作を読んでみたくなった。
劇場版の改変、改悪部分がかなり多いらしく、原作はかなり面白そうなのだ。
 
 
ここまでフルボッコに書いておきながら最後には自己完結的に作品への怒りが静まっているという実に身勝手なブログでございました。
 
最後までおつきあいいただきありがとうございました♪←いいのかそれで!

クリーピー 偽りの隣人

 
あの人、私のお父さんじゃありません……全然知らない人なんです!
 
何回か予告編を見る機会に恵まれ、昨日の昼間にたまたまやっていた「本日から公開」といった内容の番組を見終えた瞬間に「見たい度」が臨界点を超えたようだ(笑)
その時点でレイトショーのチケットをネットで確保して急遽観てきた。
 
香川照之、西島秀俊、竹内結子、東出昌大(この彼最近急速にいろんな作品に出てますね!)とソウソウたる顔ぶれのキャスト陣!
監督は黒沢清。個人的には伊丹十三プロデュースの「スウィートホーム」の不気味さが非常に好きだった。
石橋蓮司主演の「奴らは今夜もやってきた」という短編の持つ微妙な空気感も大好きな監督だ。
 
予告編を見た時点で「謎の未解決事件」「連続殺人」「サイコパス」「人間のすり替え、なりすまし」「なにかドロドロした不気味な世界観」といった得体の知れない要素の数々にドキドキさせられた。
僕の敬愛する映画「羊たちの沈黙」の持つ“サイコスリラーの傑作”のような雰囲気を醸し出しているではないか!
 
そして映画がはじまった!
 
ドキドキワクワク……
 
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そして映画は終わった。
 
エンドクレジットが出た瞬間、僕の心の中の言葉は
 
「おい……マジか?(-“-)」であった。
 
周囲のお客さんの反応も概ね自分と同期しているかのように
「ツッコミどころ満載」
「これサイコスリラーとかじゃないよねぇ?えええ?なにこれ?」
「伏線の回収がなさすぎ!ひどい!」
「笹野高史サン面白すぎ!」
 
とさんざんであった(^^;
Yahoo!映画のレビューなどをザックリ検索してみても評価は極めて低い。
初日にワクワクして見た同胞諸君は僕と同様みなお怒りのようだ。
 
夕べはこれらのレビューを読みながら自分の怒りを増幅させ、思いつくままの罵詈雑言を中心に「怒りのレビュー」を書き殴ったりしてみたのだが(^^;、一晩寝てスッキリしたところで改めてブログ用にこの映画の再考をしてみた。
 
以降ネタバレありの方向で検証をしてみたいのだが、今回のネタバレガードに関しては主にこの映画の序盤の素晴らしい部分だけを抽出してみた。
ここだけ読んだらもしかしたら「ちょっと見てみようかな……」と思えるかもしれない(^^
 

 
 
 
 

 
冒頭の雰囲気はとにかく素晴らしい。
とある警察署内、凶悪なサイコパス殺人犯の事情聴取中に起こる惨劇。
天才的に頭の切れる犯人の大胆かつスピーディーな手口であっという間に取り返しのつかない最悪の事態となってしまう。
サイコパスという特殊な人間の犯罪能力の高さを誇示するかのような凄惨なオープニングだ。
そんな絶望的状況から物語は始まる。
緊張感いきなりMAXの雰囲気がすごい!
 
この事件で大怪我をしたことをきっかけに刑事を辞め、犯罪心理学の専門家として大学の講師となる主人公(西島秀俊)。
そして大学の研究室内のふとしたきっかけから6年前に起こり未解決のままとなっていた失踪事件に関わることになる。
一人の少女を残して家族3人が忽然と姿を消してしまった「日野一家失踪事件」。
早速事件当時のまま放置されている空き家に赴き門の前にたたずむ主人公。
「犯罪現場特有の感覚がする…」という言葉が、ゾッとするほどに現場周辺に漂う不気味な空気感を的確に表現している。
 
この家には近づきたくない…
そんな忌まわしい気配に満ち溢れているようだ。
 
時同じくしてその場になぜか居合わせた少女。
当時の事件の唯一の生き残りの中学生が成長した姿になっていた。
6年の歳月を経た今になって、当時の記憶が少しずつ戻り始めているという。
大学の研究室の事情聴取で警察やマスコミには語られなかった当時の証言をポツリポツリとする少女。
 
う〜ん素晴らしい!
不気味な空気が重くのしかかり続ける感じがとにかく素晴らしい。
 
その事件とは別に、主人公が引っ越してきた家の隣人、香川照之演じる西野という男の奇人ぷりがまた気味が悪い。
「こんにちは。隣に引っ越してきた高倉です。よろしくお願いします」といった日常会話をするだけでも神経がすり減るような不条理な会話の連続になってしまう。
「今日は普通の人だな」と思えてもちょっとした単語一つをキッカケに突如またおかしな人になってしまう。
 
「間違いなくコイツが物語の核となる犯人なんだろうなぁ」と思いながら見ている我々としては、彼の一挙手一投足がいちいち見逃せないのだ(笑)。
そんな我々の期待に100%応えてくれる香川照之の細かな演技がとにかく素晴らしい!
 
“もうあきらかにおかしな人”であることは確定しているのだが、主人公夫婦はまだ「ちょっぴり変な人」ぐらいにしか思ってない。
 
まさに「志村うしろ〜!的状況」である(笑)。
 
そんな中でこの映画の一番の売りとなるあのセリフがやってくる!
 
「あの人、私のお父さんじゃありません……全然知らない人なんです!」
 
 
ここから物語は一気に転がり始める!!
 
 ……しかし正確にはここから物語は一気に
変な方向に転げ落ち始めるのだ。
 
緊張感という糸がプッツリとキレた凧はどこまでも遠くに飛び去ってしまうかのように思えた。
 
つづく(^^;

マヨラー

以前某氏と話をしていたときに「調味料の重要度は?」というお題になったことがある。
 
「しょうゆ、塩、……マヨネーズ?」
 
「え?そこでもうマヨネーズですかい?他にもありそうなものでしょう?コショウとか砂糖とか……」
 
「料理を作るとなるとそうかもしれないけど、食卓に置く調味料となるとコショウよりもマヨネーズの方が使用頻度が高いかなぁ?ワサビはそりゃ刺身のときは使うけれどもマヨネーズよりも重要じゃない気がする」
 
と言われてふと考え込んでしまった。
 
確かに調理に使うなら砂糖やみりんや料理酒の頻度の方が圧倒的に高いし、ぶっちゃけマヨネーズを大量投入して作る料理なんてマカロニサラダかポテサラぐらいしか思いつかないような気もする。
しかし食卓で使う調味料となると、汎用度の高さからの重要性という観点で考えても、マヨネーズはかなりの上位に食い込んでくるような気がしてきたではないか!
 
ソース、ポン酢、七味唐辛子、コショウ、ワサビ、カラシ、各種ドレッシングなど、食卓で使う調味料は数多くあるが、
むうう……自分の中でもマヨネーズはかなりの重要度であったことを知った。
 
もしも無人島に持って行ける調味料が3つだけだったら?
僕もマヨネーズを入れるのかもしれないなぁ……
 
そんなことを思ったのが10年ぐらい前だっただろうか。
それまでは全く自覚のなかったマヨラーだったが、今はライトミドル級程度のマヨラーの自覚があるかもしれない。
 
今回はマヨネーズについて無駄に考察してみたい(笑)。
 

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マヨネーズの製法は案外シンプルである。
 
卵と酢と油を混ぜるだけといったら大雑把すぎるが、それに塩などの調味料を数種類のみ加えただけの食品である。
 
卵と酢と油がどういった比率で作られているのかは知らないが、殺菌力の高い酢と元々腐りにくい油で卵成分が覆われて守られているのでバクテリアの繁殖が起こることもなく常温保存でも腐らない。
 
現在市販されているマヨネーズはJIS規格で定められた成分での製法しか認められていないため、保存料や着色料といった添加物は一切使われていない。
そういった意味ではドレッシングなどよりも素性の知れた食品であると言えるだろう。
 
食べ物にやたら厳しいマンガ「美味しんぼ」でマヨネーズが高評価を得ているのも、マヨラーとしてはなんだか頼もしい(笑)。
 
なお「ノンオイルドレッシング」という一見ヘルシーそうに思える商品が数多く出回っているが、油の代用として果糖ブドウ糖液糖といういかにも太りそうな「糖」の字が3つもつく成分が使われているのは見逃せない。
 
また「カロリーハーフ」と呼ばれているマヨネーズも「マヨネーズ風ドレッシング」となりマヨネーズとは異なる食品に分類される。
前述のJIS規格の規定外となってしまい、カロリーが半分であるにも関わらず糖分や塩分はマヨネーズよりも多くなるというなんとも矛盾した食品なのだが、案外知られていない。
 
もっともマヨネーズにしても油にトランス脂肪酸が含まれているという指摘もあったりするので完全に手放しで喜べる食品というわけでもないらしい。
 
僕個人的には程度の問題こそあれ許容範囲内だろうと思っているのだが、興味のある方はさらに調べられてみるといいだろう。
 

次にマヨネーズがもっとも誤解されている「コレステロールの摂りすぎになりそう」というイメージだ。
これなどもコレステロールというものを詳しく調べてみると意外なことがわかってくる。
 
まずコレステロールというものは人間が生きていく上で必要なもので、食品からの摂取がなければ生合成、つまり体が自らコレステロールを作り出して一定量を保つように働く。
口から入ってくれば合成量を減らして調節をする。
つまり「コレステロール値が気になるから…」とガマンしたところで足りない分は体が作るのだから同じことなのである。
 
また「善玉コレステロール」と「悪玉コレステロール」という呼び方が広く知られているが、これにしてもコレステロール自体は同じものであってイイモンと悪いモンの2種類がいるわけではない。
 
体にとって良い作用と悪い作用という意味合いで区別されているだけのことで、例えるなら「抗生物質は悪い細菌を死滅させるが腸の中の有益な菌も死んでしまう」とか「エアコンは熱中症を防げるが自律神経失調につながる」とか「お酒を飲むと気持ちよくなるが飲みすぎると気持ち悪くなる」といった話だと思えばいい。
 
なお、1日の摂取量上限にしてもよほどのマヨラーでご飯から焼き魚からカレーライスから味噌汁にまでドボドボマヨネーズを入れるウルトラヘビー級でもない限り、そこまで意識する量でもなさそうだ。
 
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また、こういった摂取オーバー値などの多くは某肥満大国の小山のようにお太りの方(失礼)の特殊な異常値であったり、あるいはラットが死ぬまでの過剰投与を続けて「ほら死んだ!有害だ」といった極端な実験結果から導き出された結論などが含まれていたりすることも結構多いそうなのだ。
 
単純に我々日本人でそこまでの無茶をしている人はほぼいないようにも思うので、こういった学術的根拠というのも参考程度ぐらいに思っておくのがよさそうである。
 
参考資料ページ
 

難しい話はここまで、以下は柔らかい話題となる(笑)。
 
マヨネーズの汎用性の広さはとにかく素晴らしい!
 
苦手な人にとっては「なぜだろう?なぜかしら?(-“-)」と悩みそうなバリエーションの豊富さと言っていい。
 
僕はライトミドル級程度のにわかマヨラーではあるのだが、たいていの食品に合ってしまうと思っている。
ほうれん草や小松菜のおひたしにもマヨネーズというヘビー級まではいかないが、魚とマヨネーズの一見気味の悪い相性の良さが好きだったりする。
 
アタリメにマヨネーズと唐辛子は定番の食べ方だが、自動的に干物系に限らず魚とマヨネーズは合う。
シシャモや小魚系はもちろん、アジの干物や塩サバであってもなぜかマヨネーズは合ってしまう。
 
「美味しんぼ」のエピソードで美食家の海原雄山を「!!!」と驚かせたのは確かカツオのたたきにマヨネーズというシロモノであったと思うのだが、たいていのサシミにもマヨネーズ(+しょうゆ)は合ってしまうらしい。
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(衝撃を受ける海原雄山氏)
 
「しょうゆ+マヨネーズ」という組み合わせはもはや食卓の定番になりつつあるのかもしれない。
ツナ缶、ワカメ、しいたけ、お餅、納豆、白身魚のフライ、おでん、野菜天、海苔、ハンバーガー、、、自分ではやったことのない例も多いが…ってか、
 
えええ?おでん?海苔ぃ?(^^;
 
マヨラーとしてはまだまだ半人前であることを知る(笑)
 
VAMPSの打ち上げ時では結構お高そうな割烹料理店などで出される「出し巻き卵」であっても「あのぉ…」とマヨネーズをリクエストしてしまう邪道な食べ方が好まれており、やや背徳感ありきで食べていたのだが(笑)、世の中にはまだまだツワモノのマヨラーが闊歩しているらしい。
 
みなさんの珍マヨネーズ例も教えてくださいな(^^) 

細胞

壮大なテーマから一転して“個”としての人間について考えてみる。
 
心の壁というと大げさに思えるかもしれないが、我々は一人一人小さな防御壁を持っている。
 
例えば初対面の人に接する時の態度。
これなどは実にわかりやすい「心の壁」なのではあるまいか。
人見知りの人が様子を伺うように慎重に対処する様などはまさに「ATフィールド全開!」といった印象だろう。
 
また仕事の上でハッタリをかましまくるタイプの人間、これなどは実にトゲトゲした形状の壁のように思う。
 
あるいは「脳ある鷹は爪を隠す」と言えば聞こえは良いけど、見方を変えればなるべく面倒臭いことに巻き込まれないように静観しているようなズルいタイプの人などは、無色透明だけどもよく見ると複雑な形のバリアーのように思う。
 
エヴァンゲリオンの世界観はロボットアニメであると同時に人間の葛藤を描いた作品という側面があるが、一説では登場人物一人一人のモデルは全て「庵野監督自身の葛藤」と分析されていたりもする。(本当のところは監督本人に聞いてみないとわからないことだが)
 
人間同士の関わり方が不器用であることが絶対条件であるかのような問題児パイロットたちというのも面白い設定だ。
 
心の壁について言及していっても面白そうな話題だが、さらに話は別の方向に流れる。
 

cells
 
人間はDNAという設計図を基に体が組み立てられており、常に細胞が入れ替わり続けることで個を形成している。
 
細胞の入れ替わり速度は大人になるに連れゆっくりになるそうだが、子どもの頃などはものすごい勢いで新陳代謝を繰り返しているそうで、比喩ではなく1ヶ月前の自分の身体とはまるで別物、細胞はほぼ全て入れ替わっているらしい。
  
体を形成する細胞の総数は推定37兆個!
ATフィールドのような自我境界を保ちつつもそれらの中の7000億個が日々入れ替わり続けているのだ。
 
そう考えると生命とは本当に神秘的な存在であり“人の造りしもの”がいかに単純な構造であるかがわかってくる。
 
また人間にはトカゲや両生類やナメック星人(笑)などが持つ「再生能力」はないが、ちょっとした細胞の破損などは元に戻る。
 
漫画家の岩明均氏は「寄生獣」完結後に親指の先をナイフで爪もろともザックリと切ってしまい、レモンの種程度の組織を失ってしまったそうなのだが、その後傷はみるみると治り肉も盛り上がり最終的には指紋まで元通りになったそうだ。
 
「人間対自然なんておこがましい。人間そのものが十分自然ではないか」
 
漫画のテーマに沿ったとんだオチがついてしまったと本人が苦笑まじりにあとがきに書いておられた。
 

さて、細胞の新陳代謝の話のスケールを大きくしてみると、生物そのものも世代が交代するという流れがある。
 
自分は父と母から生まれ、その父と母も父と母から生まれ……といった気の遠くなるような連鎖から生まれてきた自分がいる。
「だからご先祖様に感謝しなさい」というありがたい教えもあるが、この連鎖は未来方向にも続いている。
 
自分はあくまでも血を受け継ぐ一つの“個”でしかなく、さらに無限連鎖の“通過点”に過ぎないとも考えられる。
 
通過することを選ばずに自分の代で流れを止めたとしても、枝分かれした別の流れは兄弟や親戚などによって並行して受け継がれていることだろう。
 
 
さらにスケールを大きくしてみる。
「自分は100万年単位で長生きをしている人類という個の一部で、ほんの数十年の間だけ生かされている小さな小さな細胞」という自覚をしてみると、結構面白い。
 
キリストが生まれてからわずか2000年ほどしか経っていないが、原始時代からカウントすると人類は既に結構長生きをしている。
その説は5万年〜600万年というかなり広い振り幅の学説があるみたいだが、仮に両極の中心となる300万年としてみよう。
 
300万年を人生80年に置き換えた場合、我々の生きる80年がどれだけのスケールタイムになるかというと……(わかりにくいですかね?)
 
人類300万年の歴史の中では1年が37,500年、1日が102年相当となるので、80年の生涯の中の任意のタイミングで細胞として生まれてもわずか19時間後には死ぬといった感じとなろうか。
 
はい、わかりにくいですね(笑)
 
こういったスケール感の大きな単位の話をするときは、みなさんの大好きな「円」に単位を置き換えるだけでビックリするぐらいわかりやすくなるので早速実践してみよう。
 
人類300万円の歴史の中のあなたの人生80円!
 
地球が生まれて46億円の歴史の中のあなたの人生80円!
 
宇宙が生まれて138億円の歴史の中のあなたの人生80円!
 
そう考えると有史がいかに最近の話であるかが実感できることだろう。
 
キリストが生まれてから2000円!
源氏物語が生まれてから1000円!
江戸時代の終焉から148円?
 
うわっ!江戸時代激安!(笑)
 
ということは江戸時代が終わってから99円で僕は生まれたということなのか?(現在49円)
 
みなさんもご自身の「安さ」を一度実感されてみてはいかがだろうか?(笑) 
 
 

 
なんてことを献血をするバスの中で、自分の体内から抜き取られている血の流れを見ながらふと考えてしまった。
 
自分たらなんてちっぽけな存在なんだろうか……_| ̄|○ 
 
と落ち込む方向にいくのはよろしくない。
 
むしろ、
人類全体にしてみたら負担軽いなぁ(^^
もっと好きなことしちゃおうっと!
 
ぐらいに思うのがよろしいかと思う。
 
大きいんだか小さいんだかよくわからない話となってしまった。

ATフィールド

ずいぶん前に「下書き」をしたまま放置しているテーマがあった。
テーマが大きすぎてまとまらないというか、着地の方向性すら見えないままなのでちょっと書き足しては放置を続けていた。
 
ところが前回の献血について思うことを書いていたら壮大なテーマが案外小さな話で収束しそうな予感がしたので下書きを引っ張り出してまとめなおしてみたら……例によって1回では収まらなくなった(笑)。
多分2回でいけるとは思うが、とりあえず結論は漠然としたまま前半をあげてしまおう。
 

 表題の「ATフィールド」という言葉。
 
エヴァンゲリオンを見たことがない人でも一度ぐらいは聞いたことのあるワードなのではないだろうか?
正式名称は「Absolute Terror FIELD(絶対恐怖領域)」なのだそうだが、作中ではATフィールドとしか呼ばれていない。
エヴァ好きを自称する自分ではあるが、この正式名称は忘却の彼方であったし、またすぐにでも忘れてしまうことだろう。
 
TVアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」は基本的には巨大ロボットがわけわかんない敵と戦うという軸で構成されているアニメなので、このATフィールドにしても前半は敵や味方ロボットの持っているバリアー的な表現でしかされていない。
 
エヴァファンの方からは「ロボットじゃない!人造人間だ!」とお叱りを受けそうであるが、そんなことはわかっている。
ここはあえてロボットアニメのくくりで説明しておきたい(笑)。
 
IMG_1048.JPG
僕も以前ATフィールドを中和、破壊したことがある。それにしてもヒゲ長いな〜(笑)
 
しかし中盤あたりからロボットアニメとは思えないような哲学的な内容にどんどん踏み込んでいき、やがてATフィールドとは「自我境界」といった定義が含まれるようになっていく。
ココロを閉ざした主人公の内面世界の描写も増していき、後半になってくるにつれもはやロボットアニメの体をなさないドロドロした内容になっていく。
 
精神が崩壊した主人公が「生命のスープ」として液体の中に溶け込んでしまったり、あるいは「人のココロを侵食する新しいタイプの敵」といった意外な攻撃手段で物語が進行するようになってくる。
 
そして最終的には「ATフィールドは人間誰しもが持っている心の壁なんだ」とカヲル君(ラスボス的存在)が言い切ってしまう。
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「Kaworu’s A.T. Field」で画像検索するとイカス絵がたくさん出てくる♪
 
巨大なエネルギーとエネルギーのぶつかり合いであったATフィールドが一転して「心の壁」?
「え?」となる第弐拾四話はTVシリーズの実質的な最終回でもあった。
 
なお「心の壁」についての考察は次回に改めてまとめてみたい。
 

60億の人間一人一人が融合して最終的に巨大な一つの“個”になったら?
 
エヴァンゲリオンの世界の中に出てくる「人類補完計画」というのはまさにそういった恐ろしい話なのだが、こういった考え方自体はエヴァが元々のオリジナルというわけではない。
古今東西いろんな創作物の中にも同じようなテーマは数多くある。
 
僕の中で印象的な小説を二つ挙げるならば、筒井康隆「幻想の未来」とクライブ・バーカー「丘に町が」だろうか。
 
「幻想の未来」は「人類が一人の子供しか産めなくなる」となった近未来の話で、逆ねずみ算的に人類が1世代ごとに半数に減っていき、わずか数百年後にしてついに人類最後の二人から人類最後の一人となる子供が生まれてくるという話。
その赤ちゃんはあらゆる人種、あらゆる人間の特徴を併せ持った究極の人類として産声をあげるのだ!
 
 
もう一方の「丘に町が」の原作者クライブ・バーカーは映画「ヘルレイザー」の監督として有名だが、彼の描くダークファンタジーの世界は実に独創的な魅力に溢れている。
彼の短編集「血の本」はどの作品も強烈なヴィジュアルイメージが脳内に広がる。
 
「丘に町が」は、10年に一度隣り合った村同士で行われる儀式的な格闘の話なのだが、その方法がぶっとんでおり「村人全員が合体して一人の巨人となって闘う」というものなのだ。
パーツパーツに分かれた人々は「闘う」という意思疎通の元で「一つの個」となるのだが、これがエヴァの動かし方になんとなく似ているのも興味深い。
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(原作からインスパイアされたファンアートの中の一つ)
 
どちらも高校生かそこいらの頃に読んだ数十年前の小説なのだが、きっといろんな作品に影響を与えているのだと思う。
 
先日紹介した映画「アイアムアヒーロー」の原作マンガもゾンビものからどんどん大きなテーマに移行しているが、やはり共通点のようなものを感じている。
ある意味「人類補完計画」をキッチリ遂行しているような展開なのだが、ここまで話が大きくなってくるとキチンと着地できるのかやや不安になってきてもいる(笑)
 

壮大なスケールから一気に日常レベル、といったギャップ差の話をしたいわけではないのだが、人類とかの大きな話題から次回は一気に人の身体まで話をスケールダウンさせて同じテーマを考察してみたい。

Give us the blood!

「え?吸血鬼なのに献血したんですか?」
 
的なことをツイッターで突っ込まれてしまった(笑)。
 
これはまたうっかりさんであったが、VAMPSの二人はさておき僕は普通の人間ということで構わなかったのではなかったのではあるまいか?(笑)
(自分的にはヴァンパイアに隷属するせむし男的ポジションだと思っているのだけれども)
 

条件さえ整えば献血をすることに抵抗はないのだけれども、なかなかタイミングが難しく数年に一度程度しかできていない。
前回はH24の1月であったので4年半ぶりであった。
 
「あと15人ほどの方の協力が必要です!お願いします!」といった悲痛な訴えに胸を打たれて入ってみれば中には数人の行列があって順番待ちの状況であることが多い(笑)。
そして献血が終わっても「あと15人ほどの!」と訴えている。
 
アヤシイ!
が、まぁいい。
 
新鮮な血液は常に必要とされているのだ。
(憶測だけど「あと5人ほどの!」と言うと「じゃあ僕が私が!」とドドッと人が押し寄せてきて対応できないといった日本人的人情のバランスもあるような気がちょっとしている)
 
献血という一連の行為は、献血カードを提示してから簡単な問診や検査があり、血を抜き終わった後にちょっと休んでたりと、所要時間合計は1時間弱を要する。
血を提供するだけでない。
「1時間」という時間も提供することになる。
後ろに何も予定がなくてよほどヒマな時ででもない限り、なかなか難しいのが現状だ。
 

4年に一度ぐらいの頻度だと毎回発見があって興味深い。
血を採る針の太さや血を抜く袋の構造自体は同じようなものなのだが、例えば血の通るチューブを焼ゴテのようなものでジュッと焼いて切るような新しい道具が導入されていたり、問診の内容が微妙に変化していたりする。
 
献血カードがボールペンの記入式からピッとカードリーダーに通す今時のシステムに変わったのは10年前だが、今回はさらに静脈認証方式が導入されていた。
人差し指をピッとするだけで面倒な記入は今後不要になるらしいとは言うのだけれども…
それを登録するのにまた記入をしたりタブレットに長々と質問事項を入れなければならず……
4年後にまた新しい方式が導入されたら同じことを繰り返さなければならないんだろうか?なんて思ったりもする。
IT革命もなにが便利なんだかわからなくなる瞬間がある。
 
IMG_9233
 
献血をする質問事項の中に「過去3年以内に海外に行ったことがあるか?」という項目があり、さらに「それはアメリカ、ヨーロッパ以外のところか?」と限定され、それでもYesとなると具体的な国名を尋ねられる。
輝かしいVAMPSの海外活動の成果ではあるが、こういったときはやや大変だ。
ブラジル、チリ、アルゼンチン、メキシコと、去年の南米ツアー各国は献血的にはやや問題の多い国々となる(;^_^A
だが尋ねられるだけ尋ねられたはしたけれども、「はいOKです」とパス。
う〜ん、なんかよくわからない。
 

さて、僕が献血をしたくなるもう一つの理由に「定期的に体内の血を抜くことによって新たな血を作るという新陳代謝を促すため」というのをどこかで聞きかじって「なるほど!そういうこともあるのかもしれないなぁ」と自分の中で納得ができたというのが実はある。
 
確かに400ccの血がなくなれば体が血を作ろうとあれこれしそうな感じがする。
やや不純な動機のような気もしないでもないが、新鮮な血液は常に必要とされているのだ。
この際純粋な理由だけでなくてもよいではないか(笑)。
 
しかし、今回この説の裏付けをとるためにちょっと調べてみたら、それがかなり眉唾な話であることがわかってきた。
Wikipediaによると中世ヨーロッパの時代にはかなり盛んに行われていた健康法というか医療行為だったらしいが、現代医学の常識としてはかなり根拠に乏しいらしい。
そもそも血液自体は常に体内で作られており、約3ヶ月ですっかり新しいものに変わってしまっているそうで「新しい血、古い血」というものでもないらしい。
 
信じる信じないは別として「老廃物が取り除かれて腰痛や肩こりが改善された」とか「血を抜いて健康になって1回15,000円ポッキリのメディカルエステ」なんて商売も見つかった。
本当かどうかはさておき、そのような効果を実感されている方がいるというのだから事実無根と言い切ってしまうのもなんだか極端すぎる気はする。
 
いづれにせよ、きっと献血は誰かを助ける意味の他にも何かしら自分にとって幸せなことがあると信じるのは自由だろう。
 
なお、献血をした数日後に血液の成分分析が送られてくるのだが、これなどは同等の検査を病院ですると5,000〜10,000円の費用がかかるそうだ。
 
IMG_9244 
(今回の結果。毎日酒を飲んでいても案外健康な分析結果♪)
 
つまり、
考えようによってはタダで随分といろんなサービスをしてくれるのが献血だともいえる。
ジュースもくれるしビスケットもくれる(笑)。
 

というわけで今後も機会を見つけて定期的に献血をしようとは思うのだが……
次回献血可能となる8月27日までのあいだにこのモチベーションが下がってしまうのが通年のパターンとなっている。
 
様々な要因が排除され体力的に元気で二日酔いもしておらず一時間の余裕があった時に献血カーが目の前にいることを期待したい。
 
VAMPSの求める血とはちょっと違ったGive us the blood!のお話でした。

字幕と吹替

「エイリアン2」のブルーレイBOXが発売されるらしい。
 
この映画、30年前に映画館で見たのだが、風の音がとにかく怖い映画だった。
その後DVD特典のメイキングを見て初めて知った事実なのだが、あれだけウジャウジャいた印象のエイリアンが実は6体の着ぐるみをやりくりして撮影していたこと、驚くほどチャチな特撮やハリボテのようなエイリアンクイーンなどの負の要素がたくさん暴露されている。
早い話が思ったよりも低予算で作られていたようなのだ。
しかし監督の力量と撮影センスでそれらを見事に逆手に取った素晴らしい映画となっている。
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大群で迫ってくるエイリアンの描写を「動体センサー」の画面と接近音だけで表現したのがとにかく秀逸!この映画が後世どれだけの作品やゲームに影響を与えただろうか?
 
タイタニックやアバターといった輝かしい功績を持つジェームズキャメロン監督の若き情熱が封じ込められているSFホラー映画の傑作である。
 
ところで今回発売されるBOXの内容がかなりユニークだ。
日本語吹替版6種類を集めたというなかなかのマニアックっぷりの企画だが、どれだけの需要があるのか不思議な気持ちになる。
僕は通常盤レーザーディスクと完全版のDVDを何回も見返しているこの映画の大ファンなのだが…日本語吹替にそこまでの思い入れはないので、紹介しておきながら多分買わないと思う(笑)。
 
 

さて、映画の字幕や吹替にはいろんな意見がある。
 
僕の場合はそこまでのこだわりはないのだが、基本的に字幕で見ることが多い。
ハリソンフォードやシュワルツェネッガーなど、小・中学生の頃から聞き馴染みのある声の俳優さんが別の声で日本語をしゃべることに違和感を感じてしまうからだ。
逆にテレビの吹替を見て育った007シリーズのショーンコネリーやロジャームーア、あるいはチキチキマシン猛レースやスヌーピーといった洋モノアニメなどは英語に違和感を感じることもあるが(笑)。
 
 
一方で日本語吹替を敢えて選ぶこともある。
大きく二つの理由があるのだが、まずはIMAXなどの巨大スクリーンで視界いっぱいの大迫力画面を楽しみたいとき。
IMAXシアターは劇場内でアナウンスしている説明通り、映画鑑賞の枠を超えた「体験」に近い。
迫力のある画面に釘付けになっていたい、五感でフルに作品を感じていたいのだ。
セリフの度に字幕に視線を移すのがどうにももったいないと感じてしまうし、実際巨大スクリーン内で視点の移動をずっとやっていると疲れてくる。
 
日本語吹替を即否定する派の方が多いのは承知しているが(笑)、IMAX鑑賞時にはネイティブ言語をお勧めしたい。
(吹替版上映が午前中に一回だけだったりする需要の低さが納得いかないのだが)
 
もう一つはセリフが重要となる複雑な人間ドラマや法廷モノ、あるいは解説の多いドキュメント系の映画など。
これらのジャンルはどうしても字幕を読むことに終始してしまう印象がぬぐえない。
物語を理解することに必死で、映像の印象が残りにくいのだ。
こういったジャンルは近年映画館で見ることを放棄するようになった。
反則かな?という自覚がありつつも、一時停止して考えたり巻き戻してチェックし直したりすることのできる視聴方法が僕にとっては望ましいスタイルのようだ。
 
 

 
それぞれの欠点も挙げてみる。
 
字幕版の欠点はやはり「文字数制限」による翻訳の限界だろう。
日本でもっとも有名な翻訳家といえば戸田奈津子氏だろうが、英語を勉強した人から「間違っている」と言われる傾向が強いようだ。
ちょっと検索するだけでも鬼の首を取ったような酷評ばかりヒットする(^^;
 
しかし「1秒4文字、1行10字〜11字、最大2行まで」という字幕制約の中での翻訳というのはかなり特別なルールだといえるし、ダジャレやその言語特有の言い回しやスラングなど、翻訳という作業がいかに大変であるかは想像に難くない。
 
日本語と英語の逆パターンを考えればわかりやすいと思う。
飛行機内で邦画を選ぶと強制的に英語字幕が入っていることが多いが、「あのね…わたしね……」といった含みのある言い方が「by the way…」だけだったりすると「えーニュアンス違うしぃ」と思うし、ヤクザの凄みあるセリフも「You must learn to value our Yakuza code over your individual desires.」なんて字幕だと、ちっともそれっぽい感じがしないんである(笑)。
 
つまり制約だらけの他言語というのは、驚くほどにニュアンスが伝わっていないように思うのだ。
 
 
一方の吹替版にしても問題は多い。
「ハリーポッター」のスネイプ先生役の故アラン・リックマンなどは、あの独特の声が大好きな俳優さんでもあったので、吹替版の違和感ときたらハーマイオニーの棒読み以上に気になったものだ。(十分似てはいるんだけど)
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(「ギャラクシークエスト」ではトカゲ頭の宇宙人博士を仕方なくやっている元舞台俳優という役を演じている。また「エイリアン」のリプリー演じるシガニー・ウィーバーまでもが完全なるコメディーをやりきっている。どちらのファンも必見の映画だ)
 
 
 
また数年前に流行った「ディラン&キャサリン」のようなコントにされてしまうほどに吹替版の抑揚のつけ方や雰囲気は一種独特で、やや制作サイドの手抜きや悪意を感じるほどだ(笑)。
僕は「ビバリーヒルズ青春白書」を見たことが一度もないのだが、ディラン&キャサリンのコントの面白さは完全に理解できていると思う(笑)。
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吹替版というジャンルがあるかのような、似たようなキャスティングだったり言い回しだったり…もっとバリエーションがあってもよいのではないだろうか?
もっとも芸能人だらけのキャスティングになってしまっても困るのだが(笑)
 

結論は……特にない(笑)。
 
字幕も吹替も長所短所がそれぞれにある。
英語の理解力をもっと深められたら一番いいとは思うのだが、映画のセリフをほぼ完璧に理解出来るヒヤリング能力というのはTOEIC800点を超える人であっても難しいらしい。
NHKのアナウンサーの読み上げるニュースをヒヤリングできれば日本語マスター!とならないのと同じようなものだろう。
 
字幕版吹替版それぞれの良さを生かしつつ悪い部分には目をつぶりつつ、今後もそれぞれとつきあっていきたいと思う。