月別アーカイブ: 2016年8月

8月31日〜夏休みの宿題

渾身の「シン・ゴジラ」レビューを書き終えた。
誰に頼まれたわけでもなく義務があろうはずもないのに、本を引っ張り出しDVDを引っ張り出し、YouTubeを検索しWikiや関連サイトを読みふける。
そんな時間の過ごし方がとても楽しく、地味に病みつきになっているのかもしれない(笑)。
 
もちろん他の楽しみ方、普通に本を読むのも映画を見るのもゲームをするのもお酒を飲むのも楽しい。
どれもちょこちょこやってはいるけれども、ここ1年の自由な時間の使い方はブログに関連付けた時間が圧倒的に多い。
 
 
前にも書いたことがあるが、このブログは「夏休みの宿題」を年中自主的にやっているようなものではないだろうか(笑)。
読者のみなさんに読んでもらいたい気持ちも大きいが、それ以上に「自分の中でキチンとカタチとして結論づけておきたい内容」をまとめていくことに何よりも大きな達成感のようなものを感じているように思う。
 
ちょっとした合間に書き進められるシステムを確立できたことも大きい。
ここ数年「Evernote」という象さんアイコンの文章ツールをずっと使っている。
ガッツリ書くときはPCを使い、外出先や移動時の空き時間などはiPhoneの小さな画面でちょこまかと直す。
データは常に連動しており、クラウド上に上書きされ保存され更新され続ける。
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最近の仕様変更で無料の利用ではリンクできるデバイスが2台までに制限されたが、むしろiPadやサブのノートPCなどとリンクしている意味もあまりないので、ためらいなくMacBookProとiPhoneの2台を選んだ。
 
文章が暫定でできあがったらWebブラウザーでブログの投稿画面にコピペし、文字の装飾や写真を追加したりしながら全体のバランスを整える。
 
このブログの読者はスマートフォンで読む方が8割を超えているので、更新をする前にiPhoneでの見え方も確認をする。
 
“仕事でもないのに”というよりは、“仕事じゃないからこそ”、不器用で効率の悪いやり方のままお構いなしに続けている。
 
「無駄なく段取りよく」といった効率を一切度外視しているのは、プロ根性の対極にあるこだわりというか…
多分そこかしこに無駄があって効率が悪いことこそを楽しんでいるのだと思う。
あえて手間を楽しむというか、コーヒー豆を手動のミルでゴリゴリ挽くような感覚にどこか似ているのかもしれない。
 
そんなわけで自分なりに宿題をすること、宿題を探すこと見つけることが趣味となってしまっている。
 
子供の頃はあんなに嫌いだった夏休みの宿題のようなことを自主的に見つけるオトナになるとは思いもしなかった。
 

8月31日。
学生時代を振り返ると今の時期は毎年まさに“もっとも青ざめているピーク日”だっただろう(笑)。
 
「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」などを見ていると毎年磯野家やさくら家は家族総出で宿題を手伝ってくれるような印象があるが、我がサイトー家に関しては宿題を一切手伝ってくれない家庭だった。
「先生に怒られておいで」と母親に微笑で突き放される。
本当になんにも手伝ってくれない姿勢を貫く両親であった(笑)。
 
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僕は僕で「先生も全員のドリルの答え合わせをいちいちするわけがない。文字さえ書いてあればきっと飛ばし見で気がつかないであろう」と大胆な作戦を立て、「とりあえず算数の宿題には数字を、国語の宿題には文字を、アイウエオの選択問題は雰囲気で」といった感じの無思考な答案を書きなぐって済ませていたような記憶がある。
担任の先生によっては本当にバレなかったこともあるし、大目玉を食らったことがある気もする。
 
いずれにせよ真剣に夏休みの宿題をやったことは一度もなく、計画的に7月中に終わらせてしまうような優等生の存在がただただ眩しかった。
 
ただし「6時半起床」とか「9時から12時まで勉強」といった無謀な計画を立てるのだけは好きで、毎年実行不能な理想を思い描いてだけはいた(笑)。
 
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むしろオトナになった今は「計画を立てる」ことが苦手となっており、行き当たりばったりを繰り返す性格になってしまった。
企画書や計画書といった類とは縁遠い職業を長らくやってきたことも影響しているだろう。
日々の目標を特に設定せず、
「今日できるトコまで」
をひたすら繰り返すという仕事のスタイルが定着して久しい。
 

仕事も趣味もスタンスは基本的に同じだ。
 
最近はインスピレーションを当てにせず、とにかく資料集めから入る。
「次にやりたいゲーム」「次にお酒を飲みながらまったり見たいHulu」「いかにもつまらなそうな新作B級ゾンビ映画」といったどうでもいいようなお題でも、検索をしレビューを読み傾向と対策をつかむことは怠らない。
むしろその段階を楽しんで満足してしまうことの方が多い(笑)。
仕事はそうもいかないけれども。
 
 
そういえばこのブログの「ヴァンパイアについての考察シリーズ」がまだ完結していなかった。
8月10日「信心深きモンスター」で止まったままだ。
 
記憶している情報だけで書き出すのは心もとない。
数本の映画を見直すことから始める。
共通点を絞り込んで既に思っていたこと、新たに思ったこと、他人の意見を読んで納得したことできなかったことなど…
友人を巻き込んで意見を求めることもある。
 
そういったいろんな要素が化学反応を起こすように自分の中に変化をもたらせてくれる。
 
そして一つのまとめ作業がまた始まる。
楽しい時間がまた始まる♪
 

シン・ゴジラ〜原型探求編

前回の流れからタイムリーな話題が入ってきた!
「新世紀エヴァンゲリオン」全26話が9月16日よりNHK BSプレミアムでHDリマスター5.1chサラウンドでオンエアーが決定したそうだ。
 
現時点で最高品質のエヴァに出会うチャンスである!オススメ!(・∀・)
 

なお、今回のエントリーではシン・ゴジラの話はほとんど出てこない(笑)。
 
言うならば僕が個人的に勝手に思ったシン・ゴジラの所縁(ゆかり)、所以(ゆえん)、を庵野監督の過去作品や携わった仕事から発掘するという作業である。
 
一部こじつけもあるかもしれないがご了承いただきたい。
 

まずは多くの日本人なら見たことのあると思われる名作アニメ「風の谷のナウシカ」
この映画に登場する「巨神兵」を知っている方はとても多いと思われるし、シン・ゴジラと関連づけて語る人も既にかなり多いかと思われるので、意外性は低いだろう。
 
それにしても「巨神兵 ナウシカ」で画像検索をしてもどうもパッとしたものがヒットしない。
 
あの凄まじいビームの瞬間の画像が全然出てこない。
 
仕方がないので自分でスクショ撮るかとDVDをコマ送り再生してみたらば……
ありゃりゃ!そういうことか!
 
この巨神兵のシークエンスの作画をしているのが若き日の庵野監督というのは有名な話だが、見事なまでに静止画ではイイ絵がない(笑)。
脈動感と迫力に溢れたアニメ史に残る名ショットだ。
ここはやはりYouTube様に頼ってみることにする。
 
 
(こういった動画をブログに引用するのは問題あるのかないのか判断が難しい)
 
「巨神兵東京に現わる」の巨神兵のファーストショットとシン・ゴジラのファーストショットに通ずる共通点。
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ご存知の方も多いとは思うが「巨神兵東京に現わる」はCGを一切使わずに意地のように特撮技術のみで完成させた短編映画で、エヴァンゲリヲン新劇場版〜Qと同時上映された作品である。
 
僕は一昨年の11月に名古屋市科学館で催されていた「特撮博物館」で改めてこの作品を見直したのだが、メイキングと合わせてしばらく何度かリピート見してしまった。
 
その時にはまさか今回のシン・ゴジラの布石になっていようとは思いもしていなかった。
 
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非常に密度の濃い素晴らしい展覧会であった。
 

ところで庵野監督のメジャーデビュー作品は?
知っている人は知っているが知らない人は知らない。←当たり前だ
 
トップをねらえ!」を検索してみると……結構ディープな画像がたくさん出てくる。
正直、ヲタク度がかなり濃いという印象であろう(笑)。
今になって改めてスタッフクレジットを見ると一流どころの布陣だが、当時は庵野監督含めまだまだ「知る人ぞ知る」メンバーだったのではないだろうか。
 
僕にしてもDAICON(後述)のスタッフだと気がついたのはだいぶ後になってからの話だったように思う。
 
「エースをねらえ!」+「トップガン」というコンセプトの、女子高生が地球を救うという物語だ。
当時のキャッチコピーは「炎の熱血友情ハードSF宇宙科学勇気根性努力セクシー無敵ロボットスペクタクル大河ロマン!!!!!」であった(苦笑)。
 
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(かなりディープな雰囲気を醸し出している)
 
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(しかも主人公ロボットはマントを羽織っていたりしてかなりバカっぽい(^^;)
 
がしかし、この「トップをねらえ!」こそ、紛れもなくエヴァの原型でありシン・ゴジラの原型であることは間違いない。
 
エェェ(;´д`)ェェエ 
それってちょっとイヤなんですけどぉ……
 
と思った方も中にはいるかもしれない。
ここは観念して読み進んでいただきたい。
 
というより当初は鳴り物入りで公開された「オネアミスの翼」でコケた制作費の回収&借金返済のために、あまりお金をかけずに手抜きしながら作るはずのヲタク向けお色気パロディーやっつけ企画としてはじまったのが「トップをねらえ!」だったらしい。
がしかし、そのあまりの脚本の素晴らしさに庵野監督が完全本気モードになってしまい、結果的に赤字になるまで凝り作り倒したという逸話も残っているほどに、最終的にはエヴァに勝るとも劣らない凄いOVAとなってしまった。
 
この作品を知らないエヴァファンが今これをみたら「おおおお!!」と唸ること間違いなしの傑作である。
  
作中に出てくる「イナズマキック」なる必殺技はしっかりエヴァにも継承されているし、あらゆる部分でDNAというか脈々と受け継がれているなにかを感じずにはいられないはずだ。
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(ユニゾン攻撃のフィニッシュを決めたこのキックには元祖があった )
 
※宮崎駿作品によく出てくるなにげないセリフが「ひどいことするなぁ」であるならば、押井守作品は「異議なし」であり、庵野作品は「なんてヤツだ!」だと思う。それぞれよく出てくる。
 
僕個人的には「ロボットアニメ史上最強!」と太鼓判を押す究極のマシーン兵器「ガンバスター」は、エヴァとはまるで違う魅力の合体ロボットである。
スポ根をベースにした作品なので、このガンバスターも「努力と根性」によってどんどん強くなる(笑)。
 
こう書くと非常にバカっぽいのだが、実際かなりバカっぽい数億の宇宙怪獣を相手に対峙する第5話の戦闘シーンの爽快さを超える作品を僕は知らない。
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(数万単位で敵をボコボコにやっつけていく(笑) 作中でただの一度も窮地に陥らない無双っぷりはエヴァやシン・ゴジラの無敵感を軽く凌駕する)
 
 
 
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(敵となる宇宙怪獣の設定資料。こんなところにも使徒やシン・ゴジラの原型が垣間見えてくるようだ。庵野監督の好む「わけわかんない敵」の元祖だと思われる)
 
トップをねらえ!はOVA全3巻で完結しているのだが、第1巻の1話と2話は正直あまりオススメしない(^^;
むしろ3話から見始める方が話が奥深く感じるような気もする。
反則な見方のような気もするが、一応リコメンドとしてお伝えしておく(笑)。
 
相対性理論、ウラシマ効果といった科学的な設定が積極的に脚本に生かされているのがとにかく素晴らしい。
半年間の宇宙での亜光速任務を複数経て地球に帰還してみたらすでに十年以上の歳月が過ぎており、半年前にクラスメイトだった友人が三十路近い姿になっていたりとか、余命わずかの恋人を地球に残したまま再び亜光速戦闘の任務に出撃したりといった容赦のないサイエンスドラマが展開する。
 
最終話はハリウッド映画でも見たことがないほど壮大なスケールの内容で、そういった意味ではシン・ゴジラやエヴァの話がかなり地味に感じてしまうほどだ(笑)。
 
是非見ていただきたい作品である。
 
 
なお、ヲタク自慢を一つしておくと僕はこの「トップをねらえ!」のレーザーディスクに主人公タカヤノリコの声優である日高のり子さんの「JIN君へ 努力と根性!」というメッセージ付サインをもらっている。
 
いいだろー(^o^)←
 

ディープな話題をしてしまったついでにもう一段階深い話も紹介しておこう(笑)。
 
DAICON FILMという自主制作映画チームがあって、もっとも有名な作品はDAICON3と4だと思う。
知らない方が普通だが、その世界では伝説的に有名な作品である。
 
10年ほど前に大ヒットしたドラマ「電車男」のオープニングはまさしくDAICON4をリスペクトして作られており、ELOのTWILIGHTがなぜかアキバ系を象徴する曲として定着したのも、元をただせばこのDAICON4ということになる。
 
(大学サークルのアマチュアが作った作品とは到底思えない。当時のプロを唸らせた究極の8ミリフィルムアニメ) 
 
このチームは8ミリフィルムで実写映画も何本か作っていた。
「怪傑のーてんき」「愛國戰隊大日本」「帰ってきたウルトラマン」などの問題作を放ってはいるが、16ミリの長編映画である「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の逆襲」を知る人は少ない。
僕ら8ミリ特撮少年は当時こういった作品を食い入るように見入ったものだが、エヴァファンのほとんどの人は知らないのではあるまいか。
 
そして、「シン・ゴジラ」におけるヤシオリ作戦の「ヤシオリ」とは、ヤマタノオロチに飲ませて酔わせたという日本書紀や古事記に出てくるお酒の名前であり、こんなところにも意外なルーツを発見することができる。
 
実際「八岐大蛇の逆襲」がどこまでシン・ゴジラと関連しているのかどうかはさておき、このDAICON FILMこそが現ガイナックスの礎であることは揺るぎない事実であることをダメ押しで伝えておきたい。
 
「シン・ゴジラ」のブレーンはかつてのDAICON出身であり、庵野監督もそこでシコシコと8ミリの自主映画を撮っていたという歴史があるのだ。
 
恐るべきアマチュア集団であったのだなぁ…と改めて思い知る次第である。
 

自主規制文字数を大幅にオーバーしてもやはり全ては書ききれなかった(;^_^A
 
押井守監督の「劇場版機動警察パトレイバー1&2」と「シン・ゴジラ」についての考察もしたかったのだが、押井監督に関してはまたいつか機会を改めて語ってみたい。
 
僕の生涯で最もリピートした映画は、文句なく押井守監督作品の「うる星やつら2〜ビューティフルドリーマー」だ。
少なく見積もって200回、と2011年の時点でツイートしているのだが、それから5年の間にさらに5〜6回は見ている。
 
それこそ好きに語らせたら今回のシン・ゴジラを軽く凌駕するシリーズモノになりそうな悪寒がしなくもないが(笑)、いつかは語ってみたいお題ではある。
 
 
話がそれまくったが「シン・ゴジラ」、最低あと一回は観ておきたい。
 
…とこじつけるように話を戻したところで(笑)、
長々と語らせてもらったシン・ゴジラについての考察を終了する。

シン・ゴジラーエヴァファン視点編

シン・ゴジラとエヴァンゲリオン(エヴァンゲリヲン)との共通点を挙げていく……
果てしなく楽しそうな作業ではあるが、やりだすとキリがないので最小限に留めておきたい。
 
前回に引き続きサラッとネタバレをしていく内容になっているので映画本編を知りたくない人は読んではいけない。
 

シン・ゴジラは「地球上でもっとも優れた究極の生物」という定義がされている。
状況によって進化を続け、次々と欠点を克服していく。
水と空気さえあれば体内でエネルギー変換をして自身の代謝や移動や生命維持に用い、攻撃を受け生命の危機と判断したら高い防御能力を発揮する。
文字通りの「全方位」に対して高い反撃力を持っている。
さらなる攻撃を受ければもっと凄まじい反撃能力に進化するのだろう。
 
また状況や移動などによって形態を変化させることも自在だ。
映画では全身の姿は確認できなかった「第一形態」で海中を移動し、「第二形態」で陸上に上がりようやく姿を見せる。
そして二足歩行する「第三形態」に進化した後に一旦海中に身を潜め、ポスターや予告編に出てくるおなじみの姿の「第四形態」まで進化をする。
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シン・ゴジラ第四形態
 
僕が最初に「凄い!」と思ったのがこの中の「第二形態」だ。
独特の背びれ(?)の雰囲気はゴジラそのものだが、それ以外があまりにも気味の悪い姿なのだ。
歩くことができずに這いずるように蠢く巨体、体の色は猛毒をもった爬虫類のような気持ち悪い配色、なにより不気味なのが思考能力のなさそうな動きのない死んだような目。
「生理的嫌悪感の塊」が僕の第一印象だ。
 
「え?これはゴジラと戦う別の怪獣?」と思ったほどに第四形態のゴジラとは違う。
お見せできないのが残念である。
ネタバレするとは言いつつも、肝心要はネタバレしたくない主義なのだ(笑)。 
 
 
この不気味な第二形態に酷似したイメージの生物がエヴァンゲリオンに登場する。
 
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第四使徒シャムシエル
 
ニョロニョロした感じといい、何も考えてなさそうなウツロな目といい、第二形態にイメージが似ている。
 
他にもエネルギーを使い果たしたり激しい攻撃を受けて沈黙した後も自己修復をしながら自動防御をするという身体能力。
これも第三新東京市を襲ってくる使徒(敵)と同じで、サキエル戦、イスラフェル戦でそれぞれ同様の展開をしている。
 
「自己修復中か」「そうでなければ単独兵器として役に立たんよ」というエヴァでのセリフはそっくりシン・ゴジラにも当てはまる。
 
 
一旦話はそれるが、エヴァに登場する敵となる“使徒”は、ロボットアニメに出てくる敵としては相当異色なキャラクターが多い。
見た目的に生物っぽいものが多いのも変わっているが、中盤あたりからはコンピューターウィルスであったり粘菌状の微生物であったり、厚さをほぼ持たないナノ単位の薄っぺらい影のようなものであったり、宙に浮かぶ光の輪であったりして「どう攻撃すんねん!」とツッコミたくなるような特殊なモノが多いのだ。
最後のシ者にいたっては、少年の姿で登場するという予想外の連続だった。
 

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エヴァのフィギュアは自立できないものが案外多い(笑)
 
さて、エヴァと使徒とゴジラの共通点の一つが「生命体であること」だ。
エヴァンゲリオンの外観的にロボットだと思う人が圧倒的に多いとは思うが、実はエヴァは人間と同じく有機体であり生物である。
(「汎用人型決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオン」が正式名称となる)
 
この作品をなんとなくボーッと見ていると気がつかない重要な要素なのだが、巨大な生物をヒトの手で創り出し拘束し特殊装甲で覆っているというのがもっとも近い表現となる。
特殊装甲の中に大きなヒトが入っているというイメージでまず間違いない。
(最も顕著に表現されているのは旧劇場版「第26話 まごころを、君に」の冒頭シーン、エヴァ量産機VS弐号機の結末であろう)
 
これは後々明かされる事実というよりは、比較的序盤から映像として表現されている。
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エヴァがロボットではなく生命体であるということは第弐話で早くも表現されている
 
エヴァに出てくる主人公ロボット(敢えてそう書くが)である「初号機」は度々“暴走”をするのだが、この時のロボットらしからぬ獣的な動き方が実に生き物らしい。
とりわけ決定的なシーンといえばやはりコレであろう。
 
第拾九話 「男の戰い」
 
まばたきをし呼吸をし、ついには「食べる」ことまでする。
感情を持たない使徒に対して、怒りを爆発させているようにも見えるエヴァの暴走。
 
この二つの要素を持ち合わせた生命体こそがシン・ゴジラであると今回強く思った。
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ゴジラが怒り反撃をした後のゾクッとするようなカットは暴走時の初号機を思い出さずにはいられない。監督の初号機のイメージは「鬼」だそうだが、シン・ゴジラでもほぼ同じ印象のカットがある。
 

前回紹介したヒトの動き方こそが最大の見所であるシン・ゴジラではあるが、ゴジラという生命体の元祖こそがエヴァであり使徒であるのだ。
 
ヒトの魅力にしても、エヴァファンであれば当然「特務機関ネルフ」と「巨大不明生物特設災害対策本部」の人々の印象がそこかしこで重なってくるし、画面内に登場する大きな文字、パソコン画面内の雰囲気、作戦の進行などなど……
 
シン・ゴジラの中にエヴァの様々な魅力を垣間見ることができる。
 
2時間のシン・ゴジラに対してTVシリーズ全26話、旧劇場版2作に新劇場版が現在3作、圧倒的なボリュームでシン・ゴジラに通ずる魅力を味わわせてくれるのがエヴァシリーズだとも言えるのだ!
 
 
僕は羨ましい…
 
いまだエヴァを見たことのない人がとにかく羨ましい。
 
あの感動をこれから衝撃的に味わっていける楽しみがまだ人生に残っているのだから…
何度も何度も見続けて、それでも好きで見てしまう作品ではあるが、やはり初回のドキドキワクワク感を超えることはできない。
 
アレを楽しむことができるなんて…あぁ羨ましい。
 
尚、「ちょっと見てみようかな…」と思った人はまずはTV版の第1話を見てみることをオススメする(再)。
いきなり2時間付き合う覚悟のある方は新劇場版の「序」を見るのも悪くない選択だ。
そこからTV版に遡るのもよし、新劇場版の続編「破」に進むもよし。
 
重ね重ね恐縮ではあるけれど……
 
……あああ羨ましい!
 

さらに次回はエヴァのルーツにもなっている庵野監督作品、そしてゴジラのさらなる原型である“あの名作アニメ”に登場する圧倒的な敵キャラ、さらには庵野監督のライバル?とも言える同じ畑の名監督の東京を舞台にした作品の共通点まで追い込んでみたい。
 
ほとばしれ!俺のヲタクパワー!←

シン・ゴジラ〜強烈プッシュレビュー

初回の鑑賞から3週間、二回目の鑑賞から3日間、未だにシン・ゴジラの余韻に打ち震えている。
 
これほどまでの緻密な脚本と内容の濃さ、エンターテインメント性と社会風刺、現実的な描写と明るい未来を予感させる展望、そして旧ゴジラファンやエヴァファンへのかゆいところに手の届くサービス精神に至るまで、あらゆる要素への愛を感じた映画を僕は他に知らない。
 
現代の邦画として問題があるとすればそれは、ジャニーズやAKBタレントの起用ほぼなし(カメオ出演的に前田敦子が一瞬写るぐらい?)、男と女の恋愛要素ゼロといったあたりだろうか?(笑)
言うまでもないことではあるが、そういった要素がなければヒットしないという定説や定石こそがおかしいと断言できる。
 
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公開からまもなく一ヶ月となるのでそろそろ内容についての感想を書いてみたいのだが、今回は好事家同士が意見の交換をし合うというよりは「興味がなくもないけどどうなの実際?」といった人々を「観てみたいかも…」と思わせる方向に主眼を置くことにする。
 
また語りたいことが沢山ありすぎるので、今回は大きく二つに絞ってみたい。
 

ゴジラという映画を通ったことがないからシン・ゴジラにも興味がない。
 
案外よく聞くのがこういったシリーズ的な位置づけとしての捉え方だ。
確かに「今までX-MENを一度も見たことがないのに最新作だけ見てみよう」と思う人は少ないだろう。
ハリーポッターやエヴァンゲリオン、さらには007やガンダムのように長きにわたって様々な作品が作り続けられているものにしても、バックグラウンドとなる過去の作品を見たことがない人にとっては、新作だけを見るのはハードルが高いと感じるのも当然だ。
 
しかしシン・ゴジラに関してはそういった心配は一切無用である。
もちろん過去作品を知っていれば様々なリスペクトや自身のファン心理を満たせるような喜びを感じることはできるが、あくまでもそういった要素はオマケのようなもの。
この映画の面白さの本質ではない。
 
全てのゴジラ作品に共通点があるとすれば「核実験による突然変異体」という設定であることぐらいだ。
 
シン・ゴジラの物語は過去の作品とは何のつながりもなく、前半は「巨大不明生物」としか呼称されない。
ゴジラと名付けられるのは中盤になってからで、そこでようやく旧ゴジラと同じ「民間伝承されている破壊神の名前」が引用されるといった感じだ。
 
見たことも聞いたこともない未知なる存在によって現代日本に前代未聞の大災害が起こる、という視点で描かれている。
 
 
3.11を経験した我々日本人は現代社会の大災害を目の当たりにした。
災害は一つだけではないし一回だけでもない。
地震を起点としてそこから様々な二次災害、三次災害に被害が広がっていった東日本大震災は、津波や地割れといった自然災害から施設の倒壊や火事、原発事故といった人為的災害、複合災害に発展していった。
 
シン・ゴジラで何より見応えがあるのは、そういった次々に起こっていく災害に対して毅然と立ち向かう人々の姿を正しく美しく描いていることだ。
 
戦闘終了した自衛隊員のセリフがいい。
「気落ちは不要、国民を守るのが我々の仕事だ。攻撃だけが華じゃない、住民の避難を急がせろ」
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政府や官僚の描き方もいい。
 
普通の映画だと国の機関やシステムが脆弱でまともに機能せずに窮地に追い込まれるといった描写になりそうなものだが、この映画ではそういったジレンマのようなものをほぼ感じない。
 
むしろジレンマを感じながらも果敢に行動していく官僚や政治家の姿がとにかくカッコよくて眩しくて感動的なのだ。
 
政治家も官僚も自衛官も警察官も民間機関も総理大臣も掃除のおばさんも、自分の職務をまっとうし全力で立ち向かう。
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この映画を見た子供の中には「ボクは将来カッコイイ官僚になって日本のために働きたい!」と純粋に思った子がきっといるはずだ。
「給料がいい」とか「安定している」とか「社会的信用がある」とか親の喜びそうな理由ではなく、だ。
 
利権を死守するために足を引っ張る姿や引っ掻き回すといった余計な人間の姿が一切描かれていない、ということがむしろ現代日本を皮肉っぽく描いているようでありアンチテーゼであると取れなくもないのだが…(笑)。
 
また「超法規的措置」という言葉は様々な映画の中で案外よく聞く言葉ではあるけれども、ここまで法律や公的機関の動きを正面から描きつつの発動という流れだと、言葉の重さがまるで変わってくるようだ。
 
そんな彼らが一丸となって立ち向かっていく姿がこの映画一番の見どころであり、映画全体の半分以上は会議室の中での人間描写に費やされている。
 
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巨大不明生物特設災害対策本部の面々
 

ところで「ゴジラ」とは何者なのか?
 
という問いに対して「原発批判」であるとか「隣国との戦争状態」といった見方をする人が多いらしい。
 
もちろんそういった見方もできるようにダブル、トリプルミーニング的確信犯で作られているのだろうけれども、それを言葉として発っしてしまうのは反則だと思う。
 
そういった“含み”はあくまでも含みとして個々に感じればよいことであって、怪獣映画の見方としては正しくない。
「俺気がついちゃったもんね」なんて持論を展開するのは恥ずかしい行為なのだ。
 
さらに踏み込んで考えると、自然災害にせよ戦争にせよ原発事故にせよ、被害が起こればただちに対処するという流れは現実でも同じだ。
 
自衛隊のあり方にしても「日本に何らかの被害が起こったら可能な限り即座に対処する組織」という解釈さえすんなりとできれば、現在問題となっている自衛権がどうのとか憲法の拡大解釈であるとかの論争はここまで激化しないで済むはずだ。
 
本当にゴジラのような未知の敵が来た時のためという大義名分で法整備をしておいても決して無駄にはならないだろう。
 
 
また多くのレビューを読んでいて「ゴジラはワルモノ」という短絡的な思考をする人が非常に多いことを知り、僕はとても残念な気持ちになってしまった。
 
この映画の根幹に関わるテーマでもあるので、ここは声を大にして主張しておきたい。
 
ゴジラは確かに人間の造った街を壊し、甚大な被害を巻き起こす忌むべき存在として描かれている。
しかしゴジラは基本的には「歩いているだけ」なのだ。
 
これは映画の中のセリフでも2回ほどフォローされているのだが、たまたま東京に上陸してしまっただけなのだ。
そこには悪意や敵意を始めとする一切の感情もなければ理由も目的もない。
台風に意思がないのと同じともいえるし、門柱にオシッコをかける野良犬を器物破損罪で訴えるようなものでもある。
 
このニュアンスだけはしっかりと認識していないと的外れな内容に誤解されかねないので、これから観に行く方はそこだけは押さえていただきたいと思う。
 
ゴジラは人間に危害を加える目的があって東京に出現したわけではない。
 

……当然のように語り足りない(笑)。
Twitterではすぐにブログにするようなことを書いておきながらこのザマである。
 
エヴァや気になった過去の他作品のチェックをしていろいろ考え倒した挙句、それらの要素を今回は一切語っていない。
 
……当然のように語り足りない(再)。
 
次回は逆に「今回のゴジラは面白かったけどエヴァを見たことがない人」をターゲットに「え?エヴァ見なきゃまずい?」と思わせるような視点で語ってみたい。
 
つづく!

24時間エアコンに決着

この夏の話題の一つという印象を持てるほどに一般化してきた「エアコンは24時間つけっぱなしにしていた方が電気代が安い」という説について、僕は一昨年あたりからいろいろ考えてきた。
 
このブログでも今年の3月に話題としてあげている。
(「温度設定」http://jinxito.com/2016/03/02/temp/
 
自分の中では「あくまでも限定条件下では…」という前提ありだと判断していたのだが、「たいていの条件下においても…」となるほど広く一般に経済的となるという意見が浸透しつつある。
 
僕の見かけたネットニュースでは「11年前のエアコンであっても24時間つけっぱにするだけで電気代が35%下がった(http://grapee.jp/211701)」とあった。
にわかには信じられないほどの驚きである。
 
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かなり話題になっていることでもあるのでご承知の方も多いかとは思うが、もう一度おさらいをしておく。
 
温度というのは急激に上げたり下げたりするのに特にエネルギーを要する。
30度の室温を一気に24度に下げるよりも、24度をずっとキープし続ける方がエネルギー効率は遥かに良いというのが「24時間エアコン啓蒙の根幹」となる。
 
エネルギー効率の面から考えると、これはなにも温度に限ったことではない。
時速0キロから60キロまで加速してブレーキを踏んで止まって再び加速して減速してを繰り返して走る自動車よりも、30キロの定速走行で走った方が結果的にはエネルギーも時間も使わずに済むというのはイメージしやすいかと思われる。
 
たいていの事例においてはおそらく「安定」こそがもっとも美しいエネルギー効率となるのだろう。
 
そこに一切の異議はない。
 
僕は自分が合理主義の人間であると信じているので、この「エアコン24時間つけっぱなし説」には大いに耳を傾けたし夏にも冬にも実践をしてみた結果、一定の理解も得られ納得もできたのだけども……
 
結論として、基本的には今後採用しない方向に意思を固めた。
 

話は一旦変わるが、つい先日「玄関先でかき氷を食べた」とツイートしたら「なぜ玄関先で?」というツッコミがいくつか寄せられた。
まとめてお答えしておくと「エアコンの効いた心地よい室内ではかき氷を食べたくないから」である。
 
カラいものを食べたい気分、表面がラード層で覆われた熱〜いラーメンを食べたい気分、一人でしっぽり居酒屋飲みしたい気分などなど、
美味しいものというのはその時その時で常に移り変わっていくものだが、その多くを決めている「気分」というものは、当たり前のことではあるのだけれども「その時の環境」に大きく影響されていると思う。
 
雨降りで比較的涼しい日に「あー冷やし中華を食べた後にダメ押しでかき氷を食べておでこをキーンとイワせたい!」と思う人は少ないだろう。
 
僕が「かき氷を食べたい」と思ったのも「単純に暑かった」からであって「この暑さにはかき氷で対抗したい」と極めて自然にそう感じただけの話だ。
当然そのようなかき氷なのだから「暑い環境」で食べる方がより美味しいに決まっている。
エアコンの効いた心地よい環境の“心地よさ”は、かき氷の魅力を半減させる諸刃の剣になりかねない。←大袈裟
 
冷えた生ビールをより美味しく飲むためにと庭に折りたたみテーブルを広げて蚊取り線香を焚いてランタンを点灯してまで晩酌をしたいとは思わないが、カップかき氷を持って玄関からオモテに出る程度の手間をかけることにはなんの迷いもない。
 

24時間空調の整った部屋が快適であるのは結構なのだけれども、快適な環境は不快な環境を知っていて初めて実感できるものである。
 
暑いオモテからエアコンの効いた部屋に戻ってくると涼しくて嬉しい。
これは文句なく快適であるのに対して、
暑いオモテから帰ってきた部屋のエアコンが効いていなくて蒸しムシしているのは不快である。
 
しかし、その不快な蒸しムシとした部屋のエアコンのスイッチを入れて「グォォォォォー!」と急速に冷えていく様、というワンステップはどうだろうか?
 
エアコンという文明の利器の恩恵を感じパワーを感じ、不快な環境が快適になっていくその過程。
と考えてみると、きっと僕はこの段階が嫌いではないのだと思う。
 
スポーツカーを運転した時に感じられる加速感のようなもの?とも違うのだろうけれども、この段階を経ての快適な室内になっていくことこそが一番幸せを実感できるような気がする。
 
たとえ余分に電気代がかかったとしても(笑)。
 
 
最近はもう寝る時はずっと28度の弱冷房をかけたまま寝ているのだが、何年か前までは寝る時に1時間タイマーをかけて就寝していた。
 
夜中に蒸し暑くなって起きた時に再びエアコンを入れると寝汗をかいたTシャツに涼しい風があたり、室内がまた心地よくなっていく中で再度まどろむあの多幸感!快楽!←
 
その幸せはしばらくは感じなくても幸せだけれども(笑)、一定温度は快適である一方ドラマチックさに欠ける。
 
「当たり前」という状況や環境を今一度見直し、時には不便や手間を選ぶことこそが大切だと思ってしまったのだから仕方がない。
 
今後エアコンは状況に応じて時にはつけっぱ、時にはオフ、外出時は基本オフというスタイル、つまりすっかり元に戻すことにする。
 
合理主義者っぽくない選択からもしれないが、それもまたよしとする。
 

と我が家の方針を語ったところで、空調メーカーのDAIKINからタイムリーな話題があがってきた!
 
(夏のエアコンつけっぱなしは本当にお得? ダイキンが猛暑の部屋で実験した結果は)
 
やはり昨今の「たいていの条件下においても24時間つけっぱなしが正しい」という意見はやや誇張あり、という結論を日本一の空調メーカーが提言してきた。
 
5
(かなり細かい測定実験)
 
よ、よかった!(喜)
 
これで心置きなく出かける時はエアコンを止められる!
「十分涼しいんだけどな〜」と思った時もエアコンを止められる!
「部屋の空気を入れ替えたいな〜」と思った時もエアコンを止められる!
「蚊取り線香の香りを庭からの風にほんのり感じつつうちわで己をパタパタ仰ぎながらビールと枝豆やりたいな〜」と思った時もエアコンを止められる!(*´艸`) ←
 
そう、どこかでエアコンつけっぱなしに不便や我慢を感じていた自分がいたような気もするのだ。
 
不惑の歳からまもなく10年。
相変わらず惑い続けてはや10年。
 
それでもまた今日一つの惑いがなくなった。

BeastParty怪談〜完全版

今年のBeastParty初日で披露をした怪談だが、やはり緊張しながら時間を気にしながら省略形で進めてしまった。
またもやこのブログにて「完全版」というカタチを取らせていただくことにする。
 
なお、両日とも参加している人は初めて聞くように「ふんふん、それで?」という視点で読むようお願いしたいのと、今回は当日デッチあげた“オチ”のないバージョン、ノンフィクションの話として完結している。
最後は弱いが、今回は完全実話怪談にトライしてみる。
 
ただでさえ長めのブログなのに今回はさらに長めなので、時間に余裕のあるときにゆっくりジックリ読んでいただけたらと思う。
 

あれは僕が23歳の頃。
手狭になったワンルームマンションから新築の木造アパートに引っ越した時のことである。
 
キムラ荘(仮称)というピカピカしたアパートは、それまで住んでいたワンルームマンションよりも作りはチャチだが、家賃が1万円上がっただけで部屋の広さが倍以上になった。
 
それまで5畳1部屋にユニットバスだったのが、8畳と6畳の2部屋に風呂トイレ別である。
 
一階で日当たりの良くない立地だったのに加えて、隣や上の住人の生活音がダイレクトに聞こえてくるような安普請ではあったが、若い頃の自分はそんなことよりも「広くて新しい家」がとにかく嬉しかった。
 
やたら家のキシむ音が「パキッ!」と聞こえていたが、「新築だからまだ建物が安定していないのだろうな」とさして気にも留めなかった。
 
最初の異変が起きたのは高校時代の友人が泊まりがけで遊びに来たときである。
夜中の0時を過ぎてそろそろ寝るか、となったあたりで友人を見ると様子がちょっとおかしい。
 
「なんか頭が重いな…寒気がする」
「うん、早めに寝てしまおう」
と短い会話をして就寝。
 
ほどなくしていつもの「パキッ!」と大きな音が聞こえる。
 
「うわ!」と友人がビックリしたように飛び起きる。
「どうした?」
「なんか、ヤバくないか?」
「え?なにが?」
「なにがって……うわ!なんかいるぞ!」
と慌てて布団の中に潜り込む。
 
こいつは霊感が強いらしく、高校時代にもちょいちょい怖い話にビビらされているのだ。
 
「なになになに?え!」
こちらも半ばパニックになりながら布団の中に隠れる。
 
うわー怖い怖い怖いよー!」と叫んでしまう自分。
 
・・・・・・
 
気がつくと友人が腹を抱えてゲラゲラ笑っている。
「冗談だよ、冗談!」
 
ホラー映画は大好きなくせに心霊現象が苦手以外のなにものでもない僕のことを熟知している長年の悪友ならではのイタズラであった。
 
ちくしょう!ひっかかった!
 
だけど一緒になって笑ってしまった。
自分の取り乱しかたが我ながら滑稽すぎたからだ。
 
ちょっと落ち着いてから質問をしてみる。
「あの『パキッ!』って音がラップ音だったとか?」
「さあどうだろうか?でもこういうタチの悪いことをやってると霊が寄ってくるかもしれないな」
「やめろよーそういうこと言うの…」
「冗談だよ、冗談」
 
その日はヤレヤレといった雰囲気で終わったのだが……
 
友人が帰った翌日の夜、また0時を過ぎた頃に一人で寝ようとしたタイミングでまたいつもの「パキッ!」という音が聞こえる。
さすがにもう慣れていたのでさして気にも留めず部屋の明かりを消す。
 
しかしその直後、
「パキン!パキン!」
 
と今までとは全く異質の大きな音が鳴った。
 
「え?……」
 
(これは……これがラップ音?)
 
電気をつけようかどうしようか迷ったあたりで部屋の外の庭の方向から鈴の音が聞こえてきた。
 
「チリン……チリリン……」
 
猫の散歩かな?
 
しばらく庭に留まった後にゆっくりと部屋の横の建物側面に音が移動する。
「チリリン……チリチリ……」
 
やっぱり猫だろう。
 
聞いたことのない大きな音の後で、どこか現実離れしたような、奇妙な定位感を伴って鈴の音は消えていった。
 
(……寝よう。寝ちゃおう。)
無理にでも寝ることにした。
「怖い思いをしませんように…」と念じて就寝。
 
一旦は無事に寝られたものの、寝苦しさで再び目がさめる。
汗びっしょりで起きてしまった。
見回すと外はまだ暗い。
時計の夜光針を見ると午前2時。
よりによって丑三つ時、最悪のタイミングで目覚めてしまった。
 
「チリンチリン……」
 
鈴の音がいきなり聞こえる!
(まださっきの猫がウロウロしているのか!?)
と一旦は思うものの、なんだか様子がおかしい。
鈴の音が聞こえてくるのは隣人の部屋の方向からなのだ。
 
そしてゆっくりとチリチリした音は移動を続け、やがて引き戸を隔てた台所から聞こえてくるではないか。
明らかに玄関より内側から鈴の音が聞こえてくるのだ。
というより壁はどうした?玄関はどうなっている?
そんなことを思う間もなく、ゆっくりと僕に向かって音が近づいてくる。
 
「チリン……チリリン」
 
(ゴクリ…)
 
布団に潜り込み四つん這いになって耳をふさぐ。
自分の異常に速い心音しか聞こえない。
 
なんでこんな怖い思いをしなければならないのか?
 
イワクツキというのは普通古い物件が相場なんじゃないのか?
せっかく新築にしたのに!
 
こんな状況でも妙に冷静にそんなことを思う自分であった。
 
・・・・・・
 
何分間が過ぎたのだろうか?
ゆっくりと塞いだ耳から手を離す。
 
何の音も聞こえない。
 
去ってくれたのか?
 
ゆっくりと布団の中から上体を起こしかけようとしたそのとき、
 
ガバッ!と両腕を押さえられる。
 
動けない!
布団の上には明らかになにかが乗っかっていて僕の両腕を押さえつけているのだ!
もがこうとすればするほど両腕を押さえつけている力は強くなる。
 
これが金縛り?
初めての経験だった。
 
動くことをやめたらたちまちどこかに連れ去られてしまいそうな気がする。
わけのわからない恐怖感。
頭の中が空白になり絶望感に支配され……気を失ってしまった。
 
・・・・・・
 
次に目覚めたときはもう明るくなっていた。
 
・・・・・・
 
恐怖の夜はその後2日続いた。
電気をつけて抵抗しようが鈴の音が聞こえてきたらもういけない。
再び金縛りに合った。
 
3日目は鈴の音が聞こえてくる前に感じた重苦しい気配に耐えられず、家を飛び出してしまった。
もう怖くて部屋の中にいられない。
24時間営業のファミレスで朝まで過ごした。
 
朝方部屋に戻り、誰にというわけでもなく「お願いですからもう出ないでください」と真剣にお祈りをする。
それでも出てきたら、引っ越そう。
引っ越してきたばかりで引っ越し代はないけど、でも引っ越そう。
 
夜になり、いつでも家を出られる格好のままもう一度お祈りをする。
「お願いですからもう出てこないでください」
 
お祈りの効果があったのか、なにかの幻想と幻聴の複合だったのか、怪現象はなぜかあっさりと止まってくれた。
 
その後もしばらく「パキッ!」という家のキシむ音は聞こえたが、それ以降鈴の音を聞くことはなかった。
 
霊の存在を冒涜するような遊びをしたことが原因だったのか、僕は脅かされただけの側だったと理解され許されたのか、それはわからない。
 

後日近所を歩いていたところ、原因の一端を見つけるような出来事に遭遇する。
 
僕が引っ越してきたキムラ荘の一本裏の路地に「第二キムラ荘」というとても古いアパートを見つけたのだ。
 
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(写真はイメージです)
 
え?キムラ荘って新しくできたアパートじゃなかったの?
 
モヤモヤが残る。
 
さらに後日、駅前の床屋で「先日引っ越してきました」と挨拶がてら髪を切ってもらいつつ、会話の中で引っ越してきた場所をおおまかに説明すると、床屋の主人に「え!?あのアパートまだあったの?他に人住んでる?」と聞かれる。
 
「いや、新築ですよ。僕が引っ越してきたのはキムラ荘です。」
「あ、そう……そうなの。ふ〜ん…建て替えたんだ、あのアパート…」
「やっぱり。でもそれがなにか?」
「いえいえ、それよりどうですかこの町は」
「……」
 
僕の知りうる情報はここまでである。
 
床屋の主人に感じた違和感が何だったのかは知らないし、知らない方がいいと直感のようなものが走ったのも事実だ。
 
おそらくではあるけれども、建て替える前のキムラ荘で何か不吉なことが起こったような気がする。
 
だけど積極的に知ろうとしないことが、あの恐怖の体験を封じ込めたままにしておける唯一の手段のようにも思えた。
 
その後ほどなくして僕は結局このアパートを引き払い、この町から逃げるように別の場所に引っ越した。
 

(エピローグ)
 
数年前、別件でこの町に来たついでにキムラ荘の前を通ってみた。
築二十年以上の貫禄あるアパートにはなっていたが、今でも普通に人が住んでいるようだった。
 
しかし何かをきっかけにして、また鈴の音が夜中にやってくるかもしれないアパートのままかもしれない。
そんな隠れたイワクツキ物件がこの世の中にはたくさんあることだろう。
 
あなたの住んでいる部屋がそうではないという保障はどこにもない。
 
 
終わり
 
 
 
 
 

(もう一つのエピローグ)
 
あああ、ウソはなしと言ったのにまたもや一つウソをついてしまった。
 
このアパートはすぐ引っ越したりはせず、結局その後7年間住み続け、僕の20代を形成してきた数多の思い出ひしめく部屋となった。
 
怖いことを書いたけど、それ以降は実に住み心地の良いアパートだった。
 
むしろ家賃を滞納しまくって大家さんに庭側の窓から部屋に入ってこられたり、玄関の鍵を開け突入され家賃を催促されるような、幽霊よりもよっぽど恐い思いをさんざんしたアパートなのであった。
でも住み心地がよくて長らく居座っていた。
 
住めば都
 
これが今回の怪談を通したありがたいコトワザである(笑)。
 
真・終わり

2016BeastParty

このイベントが始まらないと夏が始まらない。
そしてこのイベントが終わらないとまた夏も終わらない。
 
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我々にとってはもはや季語であるBeastPartyが今年も開催された。
今は東京に戻る新幹線車内である。
二日酔いをはねのけ、毎晩失われていた記憶を取り戻しながらここ数日の話を振り返ってみる。
 
8月12日 ゲネプロ
 
イベントの前日に現地入り。
朝の6時に起きて大阪を目指す。
蒲郡から続いているこのイベントだが、最初に現地に入る時の高揚感が大好きだ。
遠くからは小さく見えた建造物が近づくにつれどんどん大きくなってくる。
会場に到着すると、たいていはテックのHグチさんがギターをかき鳴らしており、それをBGMに「夏が始まったぞ」と思うのだ。
 
今回はスケジュールの都合上BeastPartyのリハーサルが1ヶ月以上前に行われたきりだったので、今日のサウンドチェックやゲネプロ(通しリハ)は非常に重要だ。
 
演奏はもちろんだが、演出上のタイミングなども含めた全体を作り込んでいく。
モンスタートラックの走行速度、ウォーターキャノンを含む特効の確認、3部構成のつなぎ方やイベント限定の効果音や曲サイズの変更などなど。
 
ゲネプロで起こった悲喜劇を一つ。
オープニングで派手に打ち出されるウォーターキャノンなのだが、上手側の一発が強風にあおられてステージの方に流れてくるのがスローモーションのように見えた。
1発60リットルの水である。
「あ、機材に降り注ぐぞーこれは」
「あー俺のドラムが〜!」
「ヤベー!」
各自それぞれのテンションでの阿鼻叫喚。
 
そしてバッシャーン!
 
……(・∀・)……
 
幸い機材へのダメージはほぼなかったが、翌日のリハーサル時も全く同じ事が起こり、結局本番はウォーターキャノンを撃ち終えるまでは機材に防水シートをかぶせたままということになった。
モンスタートラックに乗るVAMPSの二人に気を取られて気がつかれなかった方も多いかとは思うが、そんな地味な防衛策がステージ上では取られていたのだ。
 
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8月13日 本番初日
 
夕べの打ち上げが楽しくて記憶を飛ばして目覚める。
目をあけて最初に飛び込む“知らない天井”に狼狽し、10秒ほどかけて自分が今どこにいるのかなどの状況をゆっくりと理解していく。
二日酔いになっている場合ではない。
今日は本番なのだ。
 
普段のライヴだったらここまでの緊張はしないのだが、やはり特別なイベントなので勝手や段取りが違う。
炎天下のもとで始まる第1部は様々な違和感がある。
明るい外だとパソコンの画面が非常に見にくいことから始まり、フロントが逆光となったりサブステージが遠いなどの物理的な事情で決められた合図の確認が難しい瞬間があったりと、普段とは違う事象がリアルタイムで次々と起こる。
 
アコースティックコーナーの第2部はパンツ1枚で放り出されるような気の抜けない感覚だ。
しかも苦手なMCもある。
今年のピアノ演奏はaikoさんのカブトムシだったのだが、機材の都合上でいつものデジタルピアノが使えなかった。
5オクターブのプラスチック鍵盤で弾くピアノは難しい。
 
第3部に入ってようやく「いつものVAMPS」の感じになる。
ここでようやく緊張感のようなものがだいぶ薄れて純粋に楽しくなってくる。
明日はもうちょっと早い時点から楽しめるかな?と思いながら至近距離での打ち上げ花火を眺める。
1年に1度だけ味わえる極上席での花火は格別だ。
 
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8月14日 本番2日目
 
夕べの打ち上げが楽しすぎてまたもや記憶を飛ばす。
今朝は目覚めたら全裸だった。しかも布団ではなくシーツにくるまっている自分であった。
はて?なぜ?(-“-)←割とよくある
それにしても毎晩どうやって会場からホテルに戻っているのだろうか自分は?
多くの目撃情報を照合すると二足歩行困難な千鳥足とも言えない酩酊状態らしいのだが、自分では知りたくない姿である。
 
楽屋ではいろいろな打ち合わせが同時進行で行なわれている。
初日の問題点を洗い出して修正を加えられる。
花火中止のお詫びの文章から終演後のハロウィンの告知映像のチェック、スチール撮影からレコード会社との打ち合わせまで、本番以外の確認事項が山ほどあるのだ。
ハイド氏の仕事量の多さは尋常ではない。
僕も二日酔いになっている場合ではない。
速やかに酔いが醒めていく。
 
2日目は本番一時間前から雲行きが怪しくなってきた。
京都の方で雷雨が発生していて、風に乗ってこちらに向かってくるとの予報。
そしてその予報はほぼ正確にあたり、本番30分前ぐらいからポツリポツリと降り始め、やがてドシャーッという大雨に。
雨が弱くなるまで待機ということに。
野外ライヴでは想定内のアクシデントとはいえ、起こらずに済むなら起こってほしくないものだ。
しかし今回の雨は比較的短い時間で流れていき、第2部が始まる頃には月も顔を出してくれた。
初日の暑さを思えばこれはこれで良い思い出になったのではないだろうか。
風邪をひいてしまった人がいたらごめんなさいだけども……
 
kenちゃんに一年ぶりに会う。
ここ数年はほぼ年に一度しか会わないのに、なぜか懐かしさも久しぶり感もない独特の雰囲気は健在。
そして心の底から楽しそうにギターを弾く雰囲気も健在。
ただし足をガバッと広げて弾くスタイルではなくなった模様。
万単位の人前で平然と下ネタをする人格もそのまま健在(笑)。
kenちゃんとは1999年以来なぜか機会があるたびに同じポーズでツーショットを撮るという習慣があるのだが、今年も無事果たされた。
しかし毎年どんどん変顔が過激になっていくkenちゃんなので残念ながら公開はできない(笑)。
今晩も楽しい酒宴になりそうだ。
 
 

こうしてVAMPSの夏イベントBeastPartyは終了した。
ごく一部のことしか書いていないが、密度の濃い二日間なので全部を伝えるのは到底不可能だ。
本番中のいろんなことはオフィシャル記事などに譲ることにして、僕の視点からの偏った報告は以上である。
 
今日ぐらいはお酒を抜こう…かな?

信心深きモンスター

悪魔以上に宗教観に縛られた要素を持つキャラクター。
言うまでもなくみなさんの大好きな吸血鬼、ヴァンパイアのことである。
 
このブログを読んでいるみなさんの多くはきっと、普通の人よりも吸血鬼について詳しいことだろう。
 
「もしも大好きなあの人がヴァンパイアだったら…」
 
な〜んて中二っぽい発想をしたことのある方の一人や二人、10人や100人はおられるかと思う(笑)。
 
以前ライヴのMCで解説したこともあるのだが、今日はヴァンパイアと呼ばれている彼らについて語ってみたい。
 

まずはヴァンパイアの特徴としてよく知られているのが、
 
○人の血を吸うことによって永遠に生き続ける

○死んでいるので歳をとらない
○人間の動きを超越した瞬間移動のようなことが出来る

○コウモリやオオカミに変身できる
 
といった羨ましい特殊能力を持っている反面、
 
○昼間は棺の中で眠っていなければならない
○十字架が嫌い

○ニンニクが嫌い

○聖水が嫌い

○日光を浴びると燃えてしまう
○木の杭を心臓に打ち込まれると死んでしまう
 
この辺りまではみなさんも知っているとは思うが、さらには、
 
○鏡に映らない

○招待されないと家の中に入れない

○バラの花が嫌い

○銀に弱い(狼男と同じ弱点?)

 
といった数多くの弱点を持っている。
 
特殊能力はかなり魅力的ではあるが、冷静に考えてみると弱点や欠点の方が多く、長く生き延びるのは人間以上に大変そうだということがすぐにわかる。
「バラの花が嫌い」にしても「苦手なんスよね〜」程度で済まされるものではなく、体に触れるだけでたちまち大やけどするぐらい負の要素、ヴァンパイアにとっては致命傷を負いかねない恐ろしい凶器となるのだ。
 

今回僕が特に着目したいのは欠点の中の「十字架」と「聖水」についてだ。
 
どちらもキリスト教信者にとってはお守りのようなありがたいものであるこれらが、ヴァンパイアにとっては忌み嫌うものとなっている。
聖水とは教会で配布されている神父様が祈りを捧げたありがたい水のことである。
 
宗教観の中での背徳的ポジションとして蘇ったヴァンパイアにとって、それらが負の要素となるのは納得はできるのだが……
それにしてもなんと信心深いモンスターであることか。
 
…思ってはいけないことなのだろうけれども、あえてこんなIFはどうだろう?
 
基本的に無宗教である我々日本人が吸血鬼となった場合、それでもやはり十字架を見たら拒絶反応が出るのであろうか?
 
聖水なんて見たことも触れたこともないぶっちゃけただの水道水だろーとしか思っていない我々でも、吸血鬼になったらそれでもやっぱり恐ろしい効力が出るのだろうか?
 

僕の大好きなヴァンパイア映画に「フライトナイト」という秀作がある。
 
 
かつては銀幕のスターだったヴァンパイアキラー役者のピータービンセント氏ではあったが、世の中はスプラッター映画ブーム。
ホコリくさい吸血鬼映画はすっかり人気もなくなり、仕事は減り唯一の出演番組も視聴率低迷で打ち切りとなり、かつての英雄はすっかり弱気なおじいさんになってしまっていた。
そんな彼に助けを求める高校生チャーリー。
チャーリーの頭の中ではピータービンセントは今もなお頼もしいヴァンパイアキラーなのだ。
高校生の妄想癖に付き合わされるのも迷惑な話だが、謝礼の数百ドルに目がくらんで即答で吸血鬼退治を引き受けてしまうビンセント。
しかしこのおじいさん、実のところ本当にヴァンパイアがいるなんて思ってはいない正常な人格の持ち主でもある。
適当にお芝居すればいいかぐらいの軽い気持ちでヴァンパイアだと言われてる男と対面してみたらば、本当にヴァンパイアではないか!さぁ大変!
 
というなんだかコメディーみたいな物語なのだが、実際半分はコメディー作品なんである(笑)。
「ある日隣にヴァンパイアが引っ越してきた」というなんともユーモラスな設定も魅力的だ。  
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(おおよそ英雄とは程遠い全力で逃げ腰のヴァンパイアキラー)
 
ところでこの映画には、僕の知る限りではこの作品のみに設定されている絶賛すべきヴァンパイアの能力に関する大きな変更点がある。
 
それは……
 「信じていない者の持つ十字架なんてちっとも怖くない」
そう言いながらイケオジ吸血鬼が十字架をあっさりと握りつぶしてしまうのだ。
 
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(あっさり十字架を壊され狼狽するヴァンパイアキラー)
 
これこそが僕が今回のシリーズで一番伝えておきたいことである。
やはりヴァンパイアは深い信仰心をベースに成立しているモンスターなのだ。
 
神も悪魔も信じるものがいて初めて存在する。
信じるものが誰一人としていなくなれば、神も悪魔もまた消えてしまうのだ。 
 
 

敬虔なクリスチャンである方は別として、我々多くの日本人が無意識に持っている宗教観では十字架のパワーを感じることもできなければ、聖水と水道水を見分けることもできないだろう。
となると、そういった信仰心を前提とした上で成立しているヴァンパイアには、そもそも日本人はなれないのではないだろうか?
あれ?これは問題発言になりますか?(^^;
 
大丈夫!
日本独自スタイルのヴァンパイアになるはずだ。
 
十字架や銀のアクセサリーをファッションとして身につけることも可能であれば、バラの花を手にとることも問題なし。
ニンニクはむしろ好物であるし太陽の光も平気であるばかりか、むしろ「晴れ男」として味方につけているフシもある。
 
誰のこととは言わないが、ジャパニーズヴァンパイアはもしかしたらそんな特性を持っているのかもしれませんぞ?
 

しかし、そんな彼らも吸血鬼の弱点をちゃんと一つ押さえている。
彼らが吸血鬼である唯一の証拠とも言えよう。
 
彼らの弱点をここで公開してしまうのは単なる裏切り行為でしかないのだが…
 
あえて秘密を暴露してしまおう。
 
上記の中にも含まれている弱点ルールではあるのだが、、、
 
○木の杭を心臓に打ち込まれたら死んでしまう
 
うん、多分死ぬ。
きっと間違いなく。
 
というわけで彼らがキッチリ吸血鬼である事実が証明されたところで今日のブログは終わりである。
 
次回はヴァンパイアにとって不可欠な存在についてと、オススメの映画を紹介したい。
 

悪魔の棲めない家

前回のエントリーをアップしたところで「あれ?そういえばホラー映画に興味のない人にとってオカルトとかホラーとかの区別ってついているのかな?」と疑問が残った。
簡単に解説をしておく。
 
ホラー映画は怖い映画全般を指す。
音楽でいうところの「ロック」みたいな大雑把な分類と思えばよい。
 
オカルトとは人間ではない超自然的存在、いわゆる幽霊や悪魔、怨霊や呪いといった定義のものを指す。
他にもサスペンス、スリラー、サイコ、モンスター、ゾンビ、スプラッター、スラッシャー、ソリッドステイト、といった感じで分類されたり「サイコサスペンス」といった感じでミックスされたりするようだが、みなさん割と勝手に命名してなんとなく定着したものが残っているといった感じだろうか。
 
ロック好きに様々なこだわりがあるように、ホラー好きにも詳細なジャンルにケチをつけてきそうな輩がいないこともないが、基本的にホラー映画全体の90%はジャンルを問わず駄作なので、貴重な良作に関してはみんなで情報を共有し好き嫌いをせず大切に愛でるといった姿勢が基本だ(笑)。
 

さて、前回の最後に「近年のオカルト映画は以前とはだいぶカタチを変えてきている。」と意味深な締め方をして終わった。
今日はそこの部分についてのさらなる持論を展開してみたい。
 
例によって怖い内容にはならないし、むしろ怖い映画が苦手な人に興味を持ってもらえるような迎合を精一杯しているので、これを機会にホラー映画に一定の興味と理解を示して頂けたらと目論んでいる(笑)。
 
 
では早速、
近年のオカルト映画は具体的にどのような変化をしているかというと…
 
物語の軸となる「人間に霊的作用をもたらせる存在」の正体が、イマイチ不明確なものがほとんどだということ。
 
オーメンやエクソシストのような教会VS悪魔といった明確な立ち位置で物語が進行するものが現代では非常に少ないのだ。
 
残虐かつ斬新な死にっぷりが売りとなっている「ファイナルデスティネーションシリーズ」などはその最たる例だ。
人に災いをもたらすオカルトちっくな存在はハッキリとありつつも、むしろ神とか悪魔といった観念とは一切関係ないことが強調されているようにも思う。
 
(作品詳細及び絶賛レビューはこちら↑)
 
もう一つ具体例を。
スパイダーマンの監督として有名になったサム・ライミ氏だが、自身の原点である「死霊のはらわたシリーズ」を今もなお作り続けている。
有名になっても自分の好きなジャンルを見失わないホラー界の偉人とも言えるし、「せっかく偉くなったのに…」と思わないでもない変わり者とも言える(笑)。
 
この「死霊のはらわた」に出てくる「死霊」にしても宗教観とかを語る以前に、ただただソッコーでスピーディーで考える余地を与えてくれない敵で、それが悪魔なのか魔界の住人なのかゾンビなのか、実のところよくわかっていない。
血飛沫ドバーッ!が慣れると笑えてくる不思議な作品だ。
(現在Huluで配信されている「死霊のはらわたリターンズ」が恐ろしいまでにくだらなくて楽しい♪)
 
 
悪魔不在
これが現代のオカルト映画の基本だ。
キリスト教やユダヤ教の定義する「悪魔」の棲める家は絶滅の危機だ。
 
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ここで声を大にして言っておきたいことは、人々から信仰心がなくなってしまったので悪魔が恐怖の対象ではなくなってしまったということでは決してない。
 
信仰心が多種多様であるがゆえに、世界のグローバル化に悪魔の存在が対応できていないということなのだ。
 
というより、民間伝承といった極々ローカルエリアで伝えられてきた怪談奇談というものは、本来グローバルの方向性には向いてないのかもしれない。
  
身も蓋もない言い方をするならば、ワールドワイドなヒットを狙う映画業界では「キリスト教限定」「イスラム圏では上映禁止」といったわざわざハードルを高くするような制約は好まれない。
 
言うならば「宗教観不在のオカルト観」というなんだかわからない設定が主流となってきているのではないだろうか?
 
 

我々日本人は「無宗教」という自覚を持っている方が多いし、僕にしても無所属(笑)だと思っている。
しかし、墓石を倒すような罰当たりな真似は絶対にできないし、神社の鳥居に落書きをするとか立ちションをするとかの行為もやはりできない。
 
政治や野球やワンピース論では意見が分かれても、こういった最低限の節度や常識に関してはほとんどの日本人が同意できるかと思う。
きっと日本人の誰しもが心のどこかで「そんなことをしたらバチが当たる」と本気で思っている。
 
これこそがもっともわかりやすい宗教観の入り口にあるものだろう。
  
「宗教」という言葉のイメージがなにか別の面倒くさそうなもの?「新興」「勧誘」「お布施」「洗脳」といったイヤな言葉を連想させてしまうのも日本のよろしくない点だと思うが、本当は「法律や条例以前に根付いている民族全体の価値観や規範」といったものが純粋な宗教観のはずだ。
 
しかし「神社仏閣で犯してはいけないタブーをテーマとした映画」はきっと日本人にしかわからないのと同様に、キリスト教にしてもプロテスタントとカトリックで教会のポジションや意味がまるで変わるし、それぞれの宗派に合わせて設定を変えて物語を作るわけにもいかない。
 
ではそういった全人類の細分化された宗教観に対応するオカルト映画を作るにはどうすればよいのか?
 
答えは一つ。
 
それはもうぶっちゃけ、対象となるオカルト要素を「よくわかんないなんか」にするしかないのだ。
全ての宗教観にフレキシブルかつマルチに対応したワルモノはもう宇宙人かゴジラかサメか、宗教観ナシの幽霊ぐらいしかないのだ。
 
以上、僕の思うオカルト映画史観でありました。
 

さて、そんな厳しい映画事情の中で120年前に生み出された古い設定を今もなお“頑なに”守り続けているジャンルがある。
 
しかも悪魔よりもさらに宗教的な限定条件があるにもかかわらず、設定の改変をする気配すらない。
それなのに世界的に受け入れられ、今もなお増産されているという謎のジャンルとは?
 
(安定の)次回に続く。
 

666

「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」。(新約聖書 ヨハネの黙示録13章18節)
新約聖書の中にある一節で、これを元にインスパイアされた作品は数限りなくある。
この引用をするのは2回目だが、やはり日本人の間でもっとも馴染み深い作品といえば映画「オーメン」だと思われる。
 
 
悪魔の子ダミアンが無自覚に自分の敵となる人間を、あるいは悪魔のしもべたちがダミアンを忠実に護るべく殺していくという映画なのだが、パート1は生まれたばかりの赤ん坊という設定が意外で怖かった。
殺される人間はその前兆として写真に謎の傷がつき、その傷の通りの不可解な現象によって命を落とすのだ。
オーメンという言葉は「不吉な前兆」を意味する言葉だという認識をずっと持っていたのだが、調べ直してみると特に「不吉な〜」という意味合いに限定されるものでもないらしく、「縁起」なんて言葉にも当てはまるのだそうだ。
 
なおオーメンシリーズは怖いだけの映画だと思われがちだが、ダミアンが12歳に成長した続編「オーメン2」は、自分が悪魔の子とは知らずに育った少年の苦悩や悪魔としての自覚が芽生えていく姿が存分に描かれた“切ない映画”として知られている良作である。
 
 
もう一つ、オーメンと同じぐらい有名なオカルト映画といえば、これはもう「エクソシスト」で決まりだろう。
こちらはリーガンという可愛らしい女の子に悪魔が憑依し、当時は気絶しそうなぐらいショッキングな映像に世界中が衝撃を受けたと聞く。
「エクソシスト」という語感からしてまず怖いのだが、意味は「悪魔払い師」であり、映画の中では当然正義の味方の位置付けとなるので誤解なきようお願いしたい。
 
 
どちらも今見ても十分に面白い映画なのだが……
 
正直なことをいってしまえば、、、僕は「オーメン」にしても「エクソシスト」にしてもオカルト映画を代表する名作中の名作であることになんの異議を唱えるつもりもないのだが、、、実のところそんなに怖いと思ったことはない。
 
あれ?これ言っちゃってよかったのかな?(^^;
 
古い映画なのでそれ以降に出てきたインフレ化しまくった怖い映像に慣れてしまったのでは?と思う方もいるかもしれないが、そういうわけではない。
同時期に公開された「サスペリア」は、“決して一人では見ることができない”唯一の映画で今もあり続けている。
 
しかし正統派オカルト映画に限ってはあまり怖くない。
なぜだか想像がつくだろうか?
 

話は一旦置いておいて、僕はジャパニーズホラーが大の苦手である。
怖い映画は好きなんだけれども、「リング」「女優霊」「呪怨」「サイレン」「着信アリ」といった系統のホラー映画は能動的に見る気がおきない。
「リング」は映画としてのデキがあまりにも優れているので何度か見てしまったが、ラストまで貞子が出てこない引っ張り具合といい、満を持して貞子が出てきた時の雰囲気の凄まじさは何度見ても怖い。
 
その「リング」が世界的にも評価され、ハリウッドでリメイクをされることになった同名タイトルの「The Ring」だったのだが、これがどうしたことかちっとも怖くなかった。
リメイク作品が同じ怖さである必要は必ずしもないけれども、どうしたらここまで怖さの本質が消えてしまうのだろうか?と見た当時は不思議に思ったものだった。
 
結論から書くと、二つの映画の相違点は“湿度”にあるのだと思う。
西海岸のさわやかな気候の中、広い研究室のようなところにポコッと出てくるサマラ(ハリウッド版貞子)。
 
          「え?」
 
四谷怪談のお岩さんや牡丹灯籠のお露に匹敵する怖い怖い幽霊の象徴である貞子。
 
ぶっちゃけシアトルのカラッとした青い空には似合わない。
貞子はジメジメした井戸の中から、我々の日常空間である薄暗い畳の部屋に出現する非現実的現実感が怖さの本質だ。
だがしかし、その日本独特の湿度を果たして陽気なアメリカ人がどこまで実感できるのかは甚だ疑問である。
 

同様に我々日本人が知ることのできない宗教観というものがある。
 
オーメンやエクソシストの恐怖の本質にしても、悪魔といった超現実的存在や凄惨な手段で殺される描写部分ではない。
 
絶対安全領域、霊的結界であるはずの教会や、身を護ってくれる神父さんの能力が悪魔に対して無効だったという部分こそが、敬虔なクリスチャンにはなによりもショッキングだったに違いないのだ。
 
日本の怪談の傑作中の傑作である「牡丹灯籠」に例えるならば、高僧に書いてもらったありがたいお札を鼻息で吹っ飛ばして扉をあけてやってくる「スーパーお露さん2」のようなものだ!ひぃぃぃぃ!
(くそ、怖さが伝わるどころかこれでは単なるギャグではないか)
 
貞子の怖さにしても幽霊の定番である丑三つ時であるとか、呪われた場所など無関係、朝だろうが昼だろうがテレビ画面を介して自分の家にやってくるという回避不能、掟破りの呪いは絶望的に怖い。
 
この辺りの民族それぞれが持つお約束感や、それを覆す意外性を理解し想像することはできても、ストレートな「怖さ」として実感することは案外難しい。
 

ゴシック系正統派オカルト映画がたくさん作られていたのは1970年代あたりまで。
近年のオカルト映画はその頃とはだいぶカタチを変えてきている。
 
なぜそうなってしまったのか?
まったくもって当てずっぽうの持論でしかないのだが、思い当たる節がある。
 
(案の定)次回に続く。