666

「ここに知恵が必要である。思慮のある者は、獣の数字を解くがよい。その数字とは、人間をさすものである。そして、その数字は666である」。(新約聖書 ヨハネの黙示録13章18節)
新約聖書の中にある一節で、これを元にインスパイアされた作品は数限りなくある。
この引用をするのは2回目だが、やはり日本人の間でもっとも馴染み深い作品といえば映画「オーメン」だと思われる。
 
 
悪魔の子ダミアンが無自覚に自分の敵となる人間を、あるいは悪魔のしもべたちがダミアンを忠実に護るべく殺していくという映画なのだが、パート1は生まれたばかりの赤ん坊という設定が意外で怖かった。
殺される人間はその前兆として写真に謎の傷がつき、その傷の通りの不可解な現象によって命を落とすのだ。
オーメンという言葉は「不吉な前兆」を意味する言葉だという認識をずっと持っていたのだが、調べ直してみると特に「不吉な〜」という意味合いに限定されるものでもないらしく、「縁起」なんて言葉にも当てはまるのだそうだ。
 
なおオーメンシリーズは怖いだけの映画だと思われがちだが、ダミアンが12歳に成長した続編「オーメン2」は、自分が悪魔の子とは知らずに育った少年の苦悩や悪魔としての自覚が芽生えていく姿が存分に描かれた“切ない映画”として知られている良作である。
 
 
もう一つ、オーメンと同じぐらい有名なオカルト映画といえば、これはもう「エクソシスト」で決まりだろう。
こちらはリーガンという可愛らしい女の子に悪魔が憑依し、当時は気絶しそうなぐらいショッキングな映像に世界中が衝撃を受けたと聞く。
「エクソシスト」という語感からしてまず怖いのだが、意味は「悪魔払い師」であり、映画の中では当然正義の味方の位置付けとなるので誤解なきようお願いしたい。
 
 
どちらも今見ても十分に面白い映画なのだが……
 
正直なことをいってしまえば、、、僕は「オーメン」にしても「エクソシスト」にしてもオカルト映画を代表する名作中の名作であることになんの異議を唱えるつもりもないのだが、、、実のところそんなに怖いと思ったことはない。
 
あれ?これ言っちゃってよかったのかな?(^^;
 
古い映画なのでそれ以降に出てきたインフレ化しまくった怖い映像に慣れてしまったのでは?と思う方もいるかもしれないが、そういうわけではない。
同時期に公開された「サスペリア」は、“決して一人では見ることができない”唯一の映画で今もあり続けている。
 
しかし正統派オカルト映画に限ってはあまり怖くない。
なぜだか想像がつくだろうか?
 

話は一旦置いておいて、僕はジャパニーズホラーが大の苦手である。
怖い映画は好きなんだけれども、「リング」「女優霊」「呪怨」「サイレン」「着信アリ」といった系統のホラー映画は能動的に見る気がおきない。
「リング」は映画としてのデキがあまりにも優れているので何度か見てしまったが、ラストまで貞子が出てこない引っ張り具合といい、満を持して貞子が出てきた時の雰囲気の凄まじさは何度見ても怖い。
 
その「リング」が世界的にも評価され、ハリウッドでリメイクをされることになった同名タイトルの「The Ring」だったのだが、これがどうしたことかちっとも怖くなかった。
リメイク作品が同じ怖さである必要は必ずしもないけれども、どうしたらここまで怖さの本質が消えてしまうのだろうか?と見た当時は不思議に思ったものだった。
 
結論から書くと、二つの映画の相違点は“湿度”にあるのだと思う。
西海岸のさわやかな気候の中、広い研究室のようなところにポコッと出てくるサマラ(ハリウッド版貞子)。
 
          「え?」
 
四谷怪談のお岩さんや牡丹灯籠のお露に匹敵する怖い怖い幽霊の象徴である貞子。
 
ぶっちゃけシアトルのカラッとした青い空には似合わない。
貞子はジメジメした井戸の中から、我々の日常空間である薄暗い畳の部屋に出現する非現実的現実感が怖さの本質だ。
だがしかし、その日本独特の湿度を果たして陽気なアメリカ人がどこまで実感できるのかは甚だ疑問である。
 

同様に我々日本人が知ることのできない宗教観というものがある。
 
オーメンやエクソシストの恐怖の本質にしても、悪魔といった超現実的存在や凄惨な手段で殺される描写部分ではない。
 
絶対安全領域、霊的結界であるはずの教会や、身を護ってくれる神父さんの能力が悪魔に対して無効だったという部分こそが、敬虔なクリスチャンにはなによりもショッキングだったに違いないのだ。
 
日本の怪談の傑作中の傑作である「牡丹灯籠」に例えるならば、高僧に書いてもらったありがたいお札を鼻息で吹っ飛ばして扉をあけてやってくる「スーパーお露さん2」のようなものだ!ひぃぃぃぃ!
(くそ、怖さが伝わるどころかこれでは単なるギャグではないか)
 
貞子の怖さにしても幽霊の定番である丑三つ時であるとか、呪われた場所など無関係、朝だろうが昼だろうがテレビ画面を介して自分の家にやってくるという回避不能、掟破りの呪いは絶望的に怖い。
 
この辺りの民族それぞれが持つお約束感や、それを覆す意外性を理解し想像することはできても、ストレートな「怖さ」として実感することは案外難しい。
 

ゴシック系正統派オカルト映画がたくさん作られていたのは1970年代あたりまで。
近年のオカルト映画はその頃とはだいぶカタチを変えてきている。
 
なぜそうなってしまったのか?
まったくもって当てずっぽうの持論でしかないのだが、思い当たる節がある。
 
(案の定)次回に続く。