PPAPと恋ダンス

IT技術の進化で自分が意識せずとも情報が目の前にぶらさがってくるような時代になってきたという前回の内容から、今日はさらに一歩踏み込んだ内容を考えてみたい。
 
便利な情報の取捨選択機能はGoogle社を始めとするIT業界の活躍によるものだけではない。
我々の能力もまた確実に向上しているようだ。
そのことに気がついたのはお恥ずかしい話なのだが、実はつい最近のことだ。
 

僕は普段滅多にテレビを見ない。
リビングのテレビがついていることはあるし健康番組や特番を見ることはたまにあるが、毎週楽しみにしている番組や習慣で見るニュース番組などが一切なくなった。
 
夏前ぐらいまでは「ホンマでっかTV」「マツコ有吉の怒り新党」「TVタックル」ぐらいは録画をして見ていたのだが、それもここ最近は見なくなってしまった。
 
在宅時の限られた自由時間の中で優先されるべきものに“PS4のゾンビゲーム”が加わったからではないかと思われる。
というか間違いなくそれ(笑)。
(最近は追加シナリオ「ザ・フォロイング」に突入。終わりなきゾンビ世界(*´艸`) )
 
朝の連続テレビ小説を見たことは一度もないし、大河ドラマは「黄金の日日」が最初から最後まで見た唯一の作品だ。
(松本幸四郎さんが若すぎる件←)
 
最後にハマったドラマは5年前の「JIN完結編」のような気もするし、とにかくテレビとの関わり合いが薄い。(追記:「半沢直樹」でした(笑))
 
テレビをリアルタイムではなく録画で見るだけでまずは「CM離れ」という現象が起こる。
話題のCMを知らないまま過ごす日々だ。
 
さすがにソフトバンク家族の初期構成ぐらいは知っていたが最近はもうなにがなんだかだし、auの昔話シリーズなどはほぼ全然わかっていない。(ほとんどテレビを見ていなくてもなぜかそのレベルの情報程度は入ってくる)
 
さらに録画すら見なくなると今度は「ブレイクしているお笑い芸人さん」であるとか「流行っているドラマが何であるか」すらわからない日々に突入していく。
 
ちなみに僕はDAIGOがブレイクする随分前から面識があるのだが、終演後の楽屋等で軽く会釈をする程度の関係だった。
「あれ?いつもライブを観に来ている笑顔のお兄ちゃんによく似た人をこの前テレビで見かけたような…」と思い、次に打ち上げで会った時に「あのぉ、もしかしてこの前テレビに出てた?」とおそるおそる聞いたという恥ずかしい経緯がある(笑)。
 
すっかりブレイクした後もしばらくは気がついてなかったのだ。
(腰が低く礼儀正しい好印象キャラは今も昔もまったく変わっていない)
 
こういった恥ずかしいことが起こらないためにも、「ホンマでっかTV」一本だけでも見ていたいのだ(笑)。
 
ゲストに人気俳優やお笑い芸人さんが出たりするので、最低限の時代の流れのようなものを窺い知ることのできる僕の数少ない芸能ソースだったのになぁ……だがゾンビ優先(笑)
 
今となっては既に忘れられかけた名前かもしれないが、ここ数年の一発屋さんで知っている人はスギちゃん日本エレキテル連合ぐらいで、8.6秒バズーカを見たことがなければクマムシの歌を聞いたこともない。
瞬間的に「時の人」 としてお茶の間を席巻する一発屋さんに遭遇できる確率が著しく低いからだと思われる。
 
 
ここ最近流行しているらしいピコ太郎の名前やルックスはさすがに知ってはいるけれども、“PPAP”なるものを聞いたことは実のところ一度もない。
「恋ダンス」にしても見たことも聞いたこともないが、やはり存在そのものは知っている。
 
もちろんどちらも知ろうと思えば10秒後には見ることも聞くこともできるのだろうが、特に興味がないので知らないまま過ごしているし、ここまで知らずににきたのだからもはや意地でも知ろうとしないだろう。
“PPAP”は数日前のFNS歌謡祭でチラッと見てしまったが(笑)
 

例えとしてテレビというメディアと芸能ネタにしたけれども、政治にしても社会にしても関わり方や扱い方は同様だと思う。
我々は自分に向かってくるあらゆるジャンルの情報に対しての取捨選択を常にし続けている。
 
情報をひたすら与え続けるのがテレビや広告やIT産業の役目であるのならば、我々は自分にとって必要な情報を選別し、いらない情報はどんどんシャットアウトしていくという能力をより強力にしていく必要があるのだ。
 
なんでも無条件に許容していってはいけない。
 
新聞による社会全体のゆるやかな洗脳のようなことは、歴史を紐解けばいくらでも証明することができる。
 
近年の過剰なマスコミの姿勢にネット社会が敏感に反応しているのも興味深い現象だ。
 
政府や企業がひた隠しにしたい“不都合な真実”であってもグイグイ知りたいと能動的に探っていけるネットは、ここ数年彼らにとっては非常に厄介な存在となっていることだろう。
 
しかもネットの情報は基本無料でいくらでもたぐっていけるので、軽い閲覧はもちろんのこと、深く知りたい場合も相当詳しく理解できる部分まで踏み込んでいける。
(玉石混淆。ネットには正しい情報と誤った情報が入り混じっているので、そこを見極め判断するのにも能力が問われるが)
 
さらに自分にとって必要な情報であると思ったのなら、ネットを介して専門書を購入するなりのステップにもすぐに進める。
 
最近の物流スピードは異常とも思えるほどで、朝に注文した本が夕方には配達されてくる。
その時間すら惜しいのであれば、有料情報サイトや有料メルマガの購読といった手段もある。
 

自分に必要な情報は100ある中から識別し、自分にとって不要な大部分はスルーしていく。
 
IT技術が進化しても結局のところは自分で情報の取捨選択をしているし、その判断の連続が“日々そのもの”とも言える。
 
「自分という個を確立するため」は大げさすぎる表現かもしれないが、均一化を目指す社会の流れに一切抗わずにいると、恐ろしいほどに平坦な人間になってしまいそうで、それが僕は怖いのだ。
 
 
グローバルという言葉が高らかに謳われるようになってから久しい。
 
しかし、みんながみんなグローバルを目指してしまったら世の中はとんでもないことになってしまう。
適材適所の役割があってこそのグローバルなのだ。
 
そして真のグローバルはローカルにあり。
 
ローカルが繋がっていくことこそがグローバルの本質であり、語学力を身につけることやコミュニケーション能力を高めることは、全体の流れの中のほんの一部でしかないと僕は思っている。
 
しかし現代の日本はその“ほんの一部分”でしかない能力を伸ばそうとした教育ばかりが盛んなようだが、“日本そのもの”の部分なくして一体なにを世界につなげるというのだろうか?
 
ローカルなくしては何も始まらない。
 
ローカルとは固有の特性であり、つまるところは個性そのものだ。
そこを軽んじては決していけないと思う。
 
そのためにすること、まずはテレビを見ることをやめてゾンビゲームをやる。
 
……え?
 

PPAPと恋ダンスを知らないことを相当驚かれ笑われ呆れられバカにされたのが悔しくて最大限理屈っぽい言い訳をしてみたわけだが、どこまでいけますかね、これ?
 
というちゃぶ台返しのどんでん返しで終わらせてみる。