弘法筆を選ばず?

こだわりの話は前回で終わったはずなのだが、なんとなくズルズルと補足的なことを書いてみたい。
 
弘法筆を選ばず」という諺がある。
能書家の弘法大師はどんな筆であっても立派に書くことから、その道の名人や達人と呼ばれるような人は、道具や材料のことをとやかく言わず、見事に使いこなすということ。下手な者が道具や材料のせいにするのを戒めた言葉。(故事ことわざ辞典より引用)
 
この諺のカッコ良さを真に受けた僕は一時期、仕事道具やスタイルから一切のこだわりを排除した時期がある。
二十代中盤から後半にかけての頃である。
お恥ずかしい過去の話なのだが、既に自分の中では時効を過ぎている。
今日は当時の自分に恥をかいてもらおう(笑)
 
その頃の鍵盤師匠がどんな安っぽいおもちゃのような鍵盤であっても、カッコいいフレーズを次々と弾いてしまうような魅力的なプレイヤーであったことも大きかった。
当時「マニピュレーター兼作編曲家見習い」だった自分は、例えば「マックのキーボードはApple Extended Keyboard IIの英語配列でなければならない」といった職業的こだわりをいろいろ持っていたのだが、そんな師匠の影響を受けて「なんでもいいや」と日本語キーボードにしてみたり、サードパーティ製の謎の形状のものを使ったりしてみた。
 
 
今思えば「なぜそこまで?」と思わないでもない純正キーボード。価格はなんと25,000円!当時アップル製品はなんでも高価だった。
 
そんなキーボードのこだわりを捨てたところから始まり、いろんなソフトや知らないメーカーの機材を手当たり次第に使ってみたり、聴く音楽も一気に別の方向にすっ飛んでみたり……
 
 
迷走は数年間続き、そして気がついてみれば軸というか芯というか、自分が何をやっているのか、また何をしたいのかすらすっかり見失ってしまっていたように思う。
 
弘法筆を選ばずという諺に憧れを抱くまでは悪くなかったが、いかんせんその当時の自分は「その道を極めた人」でもなんでもない、ただの青二才でしかなかった。
つまり弘法じゃない人が筆すら選ばないということは、それってもしかして
 
「いいとこなし」なんじゃね?
 
…ということに遅ればせながら気がつき、その時点から一つまた一つと自分のやりやすいスタイルを取り戻していったのである。
 
返すがえすもなんともお恥ずかしいエピソードである。
 
 

 
その後出会った弘法氏の数々は、ことごとく自分の筆を選びぬきこだわりを持つような人ばかりであり、しかしそんなこだわりを持ちながら黙々とストイックに技を磨く姿がまぶしく見えた。
弘法の本当の姿、それは自分に合った筆を選ぶだけに留まらず、納得がいくものを専門家に作らせるぐらいの執拗なるこだわりを持っていた。
 
まさに「鬼に金棒」である。
 
僕が憧れていた鍵盤師匠にしても、どんな安い楽器であっても弾きこなせる技の持ち主ではあったが、それはあくまでも余興的な使い方、ここぞの一番ではやはり自分の愛用楽器をこだわりを持って使っていた。
しかし当時のアホな自分はそういった本質を見落としてしまっていた。
 
 
こういった経緯を経て、半ば反動のようにこだわるべき部分にはキチンとこだわるという仕事スタイルが身についたと同時に、さらなる反作用のように「こだわらなくてよいものには徹底的にこだわらない」というひねくれた人間性が身についてしまったような気がする。
 
しかし他人からしてみれば「ちょっとはこだわったら?」と首を傾げられるぐらいに、興味のないことにはどこまでも無頓着な人格が形成されてしまったように思われる(´_ゞ`)ちーん 
 

といった人生をうっかり過ごしうっかり50歳になってしまった僕から、みなさんにありがたい言葉を贈りたいと思う。
 
名言や格言やことわざはありがたい言葉ではあるけれども時と場合と自分によるだろきっと←
 
 
ことわざや格言は言ってみれば極論の数々でもある。
しかし「そつなく適当にやりすごすのが結局は無難」といった心に響かない内容が名言になりにくい理由もわからなくもない。
 
しかし人生は「極論VS極論」だけでは到底渡っていけない。
うまく応用しながらもユルユルとかわすような柔軟性を持って臨みたいものである。
 
と最後は結局心に響かない提案で終わってしまおう(笑)