ブレードランナー2049

年内のVAMPSの表立った活動が終了した。
これに伴いサポートメンバーである僕は、旅中心だった生活からしばらくは家に引きこもる生活にシフトすることになる。
すっかり慣れてしまったとはいえ、この生活のギャップはとても大きな振り幅だと思われる。
ずっといなかったかと思えばある日を境に今度は平日の昼間もブラブラしている謎の住人となるわけだから、近隣住民のみなさんにしてみればさぞや不審人物感満載なことであろう(笑)
早速別の仕事に着手したいところではあるが、積極的な営業力もなく基本怠け者の自分なので、「しばしの充電」と言いつつ事実上の「長期ズル休み」をしてしまうのが例年のパターンなのだが、そうも言ってられない世智辛い世の中である。
オフ期間は自身向上のための様々なことをこなしつつも……
 
関係各位の皆様!斎藤はしばらくヒマです!仕事あったらなんか振ってください!
人殺し以外なんでもやります!
 
……これで営業のつもりなんだろうか?(笑)
 

とは言いつつもせっかくのお休みができたところで先日「ブレードランナー2049」を観てきた。
 
以前このブログに書いたこともあるのだが、SF映画の金字塔的名作である前作「ブレードランナー」ではあるのだが、実のところ僕はそこまで好きな映画ではなかった。
しかし映画評論家はもちろんのこと、多くのクリエイターにリスペクトされ模倣されてきた名作であるという認識はあり、また映画好きの友人の誰しもが「あの映画は凄い」と言うので……これまでに何度も理解をしようと少なくとも5回ぐらいは見直したのだが……やはりそこまで凄い映画だとは思えなかった。
(押井守監督「攻殻機動隊」もまたジャパニメーションの革命的傑作と絶賛されているが、やはりこの作品も僕は今ひとつピンと来ていない。この手のジャンルは決して嫌いじゃないのに、またリドリースコットも押井守もそれ以外の作品は大好きなのに不思議な共通点だ。ちなみにこの二作品の影響を色濃く受けたと思われる「マトリックス」は大好きな映画である)
 
18歳の時に友人宅のビデオ(Betamax)で見た初見から32年が経過した今、35年ぶりの続編を鑑賞するにあたり、おそらくは6回目ぐらいとなる「ブレードランナー」をまずは10年ぶりぐらいに見た。
そして意外にも「あれ?面白いぞ」と素直に思ってしまう(笑)
これだから映画というものはわからない。
このタイミングになってようやく魅力を理解することができたと同時に、今までピンとこなかった理由のようなものも一気に判明した。
 
○前評判、予備知識といった期待値が非常に高すぎた。
○「ブレードランナー」という語感にもっとカッコイイ何かを求めていた。
○エンターテイメント要素満載のド派手な内容を期待してしまっていた。
○絶賛されている芸術性がなにかを探すように見てしまっていた。
 
見返すたびに僕はこういった「期待値」の確認を繰り返していただけだったのだ。
しかし今回の旧作の見直しは新作を見るにあたっての予習というか復習というか確認のためだったので、そういった期待を一切せずに見始めた。
完全なる素、ナチュラルな精神で初めて見た「ブレードランナー」は意外すぎるほどに面白かったのだ。
もしも初見時が「ほう、リドリースコット監督でハリソンフォード主演のSF映画なのか」程度の予備知識だけだったならば、あるいは32年前に純粋な面白さに気がつけたのかもしれないなぁ…と思ったりもした。
 
そしてその続編である「ブレードランナー2049」を観るときに強く念じたことは……言うまでもなく「過度の期待をしないこと」であった(笑)
 

「ブレードランナー」だけに限らず、こういった近未来を描いた作品には特有の宿命がある。
それは、リアルな時代の経過によって、オリジナル作品で描かれた「未来の世界」が現実とはだいぶ違う方向性になってしまうということだ。
その中でも「どうして誰も想像できなかったのだろう?」と思う筆頭は……やはり携帯電話の普及だろう。
退廃的な傾向の強い「ブレードランナー」ではあるが、車が空を飛んだり人間と区別のつかない精密なサイボーグ(レプリカント)などの科学技術は、今我々が生きているリアル世界よりもだいぶ未来を行ってる。
しかしスマートフォンはおろか携帯電話すら存在せず、液晶テレビも開発されずにブラウン管のままで、コンピューターに至ってはグリーンディスプレイ、OSはテキストベースでGUIでもない。
現実の2017年の視点から見ると、1982年に描かれた「2019年」はだいぶ違う方向の未来描写になってしまっている。
 
この錯誤感覚はサイバーパンクというよりもスチームパンクに近い感じがする。
スチームパンクとは「もしも電気が発明されないまま蒸気機関のみで人類が進化をしていたら?」といったIFの世界観で、歯車と蒸気機関の組み合わせによる巨大な機械とか計算機とか飛行船のイメージだ。
(「パタリロ」に登場する「ガステレビ」なんかもある種のスチームパンクだろう(笑)
 
「天空の城ラピュタ」などは明らかに古い時代のような描かれ方をされつつも、巨大な飛行艇が空中に静止しているといった、現代文明では説明のできないような一部突出した技術が同居した世界だ。
 
「マトリックス」にしてもおそろしくレトロなダイヤル式の黒電話が登場するが、それを物理的に歯車で操作して高度なプログラムを転送するといった表現がされていたりした。
(マトリックスといえばやはりこの画面ははずせない) 
 
僕はこういった「来なかった未来・レトロフューチャー」が大好きで、以前にもこのブログで何回かに渡って語らせてもらったことがある→
 
我々が過ごした35年間の現実世界の進化によって、「ブレードランナー」の世界観はだいぶイビツな未来となってしまったわけだが、クールな世界観を壊すことなく続編でそこをどう表現していくのか?
 
僕の一番の興味はそこにあった。
 
(「来なかった未来」の世界観を今カッコよく描くのは非常に難しいと思われる)
 
これがダメダメな映画になると、都合の悪いことは「なかったこと」にして仕切り直してしまう。
近年で一番違和感を感じたのはやはり「スターウォーズ」のエピソード1だろう。
この映画はエピソード4の32年前という設定なのだが、出てくるロボットも宇宙船も映画表現的にも、全てが明らかに「未来」になってしまっていた。
1977年公開のエピソード4から22年が経過し、SF映画の表現は別次元の進化を遂げたわけだが、それは同時に前作の世界観を否定しかねないほどの悪魔的進化だったと言えるだろう。
極端なことを言えば昭和の時代にスマートフォンがあるような違和感を画面の節々に感じてしまう。
(その一例。30年前の方が別次元に文明が進んでいる矛盾)
 
もしも「スターウォーズエピソード1」が単作だったら何の問題もないのだが、続きモノでこういった矛盾を感じさせるのは許されない。
これは「さらば宇宙戦艦ヤマト」で主だった登場人物がみんな死んでしまったにも関わらず、続編「ヤマトよ永遠に」では全員がシレッと生きていたぐらい許されないことだ。
子供ながらに「ひどいなこれ」と思った、まさに「なかったこと」の代表格に匹敵する(笑)
(その後「ヤマトよ永遠に」「完結編」「復活篇」など無尽蔵に続編が制作され、挙げ句の果てには「さらば〜」以前に死んでいた沖田艦長までもがついでにサイボーグ化して復活した(笑))
 
さぁブレードランナーはどう乗り切るのか?
 

結論を言えば「ブレードランナー2049」は素晴らしかったと思う。
我々の住む世界とは別のパラレルワールド、あくまでも「来なかった未来の延長線上の未来」がダイナミックに描かれていた。
前作への敬意を感じると同時に、独特の世界観にさらなる説得力をもたらせてくれていた。
ブラウン管はブラウン管のまま進化を続け、コンピューターもレトロデザインのままで進化をしているような表現を堂々とやりきっていた。
 
「人間そっくりのレプリカント」の表現は、単純に人間が普通に演じれば演じるほどに「よりリアルなロボット」となる矛盾感に、面白みも感じた。
CGによる補正やちょっとしたアクセントによって、むしろレプリカントの表現は前作よりも退化してしまったのでは?と思ったりもしたのだが、もちろんそこを突っ込むつもりはない(笑)
 

ここへ来てブレードランナーの世界観が好きになってしまった僕ではあるのだが、やはり一度見ただけで全てを理解することは困難だ。
レビューや特集を熟読し、前作をさらに見直し、前作と今作の中間の時代を紡ぐ3本の短編作品を見直し、そしてもう一度劇場に足を運びたいと思う。
 
……と、ブレードランナーの画像を1枚も使用せず、またストーリーについてもほぼまったく言及せずに、あくまでもブレードランナーについて語りつくしてみた(笑)