月別アーカイブ: 2018年3月

刑事さん

ちょっと前の話になるのだが、とある日の午後、我が家に二人の刑事さんがやってきた。
鋭い眼光、トレンチコート、一点の曇りのないイメージ通りの刑事さんだった。
「ヤバい!あの件がバレたのか!?」
とまずは思ってはみたものの、、、さしあたって悪事を働いた覚えがない。
聞けば目撃者を探しているのだという。
 
 
「斎藤さん、3年前の○月×日にどこにいらしたか覚えていますか?」
 
「え……3年前ですか?全く覚えていないんですけど……(そりゃそうだろ!)」
 
「ですよね。ごもっともです。3年前のその日に、とある場所でひき逃げの死亡事故が起こりまして、その目撃者を探しているのですが、事件前後Nシステムに斎藤さんの車が記録されていたので参考までにと思いまして……」
 
「はぁ……それにしても3年前となると、ちょっとカレンダーを見てみますね」
とパソコンのスケジュールをたどってみたところ……あ!「ニトリ」と書いてある!
そういえばその時期は家具の物色にニトリやIKEAを日参するように通っていたことが判明する。
 
「確かにその日はそこを通っていたようです。ニトリの○○店はその先ですし。でもさすがに道中で事故があったのか事件があったかまでは全く覚えていません」
 
「そうですよねぇ。3年前のことですしねぇ…」
 
と刑事さんは妙に間延びした相槌を打ちながらもこちらをガン見している。
あれ?なんか違和感なんですけど?
 
……これって事故の目撃情報収集だったんじゃ?
これではまるで「容疑者ジンサイトー」的な扱いではないか。
 
結局要領の得ない問答をしばらくして「なにか思い出しましたらこちらにお電話ください」と連絡先を渡されたのだが、まず思い出すこともないだろう。
 
刑事さんが帰った後に改めて考えてみる。
 
ひき逃げ事件が起こったのは本当だろう。
犯人が見つかっていないことも本当だろう。
その目撃情報を収集していることも本当だろうけれども……
 
やはりその時間に通行をしていた車のナンバーをシラミ潰しに調べて、怪しい挙動の人間がその中にいないのかを探っているというのが本筋なのだろう。
 
もしも自分がひき逃げをしていたらと想像を巡らせてみると……やはり刑事さん相手に今さっき自分がしていたような余裕の受け答えはできなかっただろうし、それをジッと観察することこそが刑事さんの主目的だったのだろう。
 

僕ら世代の思う「刑事さん」はちょっと特別な存在だ。
比較的最近の刑事ドラマである「踊る大捜査線」や「相棒」とはやや趣が異なる。
 
「太陽にほえろ!」「Gメン75」「熱中時代」「大都会」「西部警察」「危ない刑事」etc,etc…
昭和時代の小学生にとって、刑事はとにかく憧れの存在だった。
(石原裕次郎さんこれで40歳とか……すげー貫禄だなぁ……)
 
「ユーチューバー」も「ゲームクリエイター」も「ITエンジニア」もなかった時代、子供が選ぶ「将来なりたい職業」の中には必ず「刑事」があったものだ。
 
僕の刑事さんのイメージは「とにかく走る」だ。
 
かっこいいBGMが流れながら全力で走る!聞き込みで走る!犯人を追いかけて走る!二手に分かれて違う方向に走る!背広でも走る!とにかく走る!
 
(テキサスとボンってすぐにわかる我々世代)
 
ところで刑事ドラマを見ていて子供の頃からずっと納得のいかない描写があった。
逃げる犯人を追いかける刑事さんたちは、必ず途中で二手に分かれて挟み撃ちにしようとする。
全然違う方向に走る若手の刑事が見事に犯人の先回りをするわけだが……僕は小学生の頃からこの作戦に強い違和感を感じていた。
 
図解してみると……
犯人の逃走経路のパターンは街中であればあるほどに予測がつかない。
90度違う方向に走って犯人を先回りできる確率というのは非常に低い。
 
こんなシンプルな街並みにおいても、会敵できるのはわずか16.5%なのだ。
 
刑事さんならではの確信があるのだろうか?
 
しかしその確信はかなりの的中率で、実際大抵の場合においてはまんまと挟み撃ちができてしまうのである。
 
「え、なんで?」
と毎回ツッコミを入れていたひねくれた小学生だったと同時に、そういったことにいちいち納得のいかない正しい確率・統計論者なのであった。
 
やっぱ納得いかーん!←
 

はっ!……といったこまかい話はやめて元に戻そう。
 
普通に善良に平和に問題なく生きている限り、刑事さんに遭う機会というものは中々ない中で刑事さんが我が家にやってきた。
 
考えてみれば僕が生涯生きてきた中で刑事さんとちゃんと会話をするのはこれが初めてだったようにも思う。
芸能人以上に滅多に会えない人なのだ。
 
しかし、、、滅多に会えない人でもあるのでこの際だから一納税者、一国民としてキッチリと伝えておきましたよ。
 
「あの……Nシステムそのものの賛否はさておき、それにしてもなぜ解析というか、ここにたどり着くまでに3年もかかってしまうのですか?ゴルフや野球中継のようにわずか数秒でリプレイされるようにはいかないまでも……その日起こった事故ならその日のうちに、せめて1週間、どんなに長くとも1ヶ月以内ならば目撃情報もかなり正確なものが収集できると思いますけども……犯人探しの懸賞金にしても10年前20年前の事件の情報依頼が今でもありますけど、寄せられる情報に光明を見出せるネタが一つでもあったりするものなのでしょうか?同様にせっかくのNシステムがありながら3年かかってしまっていたのでは張子の虎、現実的に運用できてないに等しいのではないのですか?」
 
……と言えたらよかったのだけれども……やはり相手は刑事さん。
昭和を生きてきた世代の我々にしてみたら畏怖、畏敬の念を抱く存在でもある。
そんな大それた口をきけるはずもなく……
「お仕事ご苦労様です!なにか思い出すようなことがあればすぐにお伝えいたします」と無難なことを言って終わったのであった。
 
 
2年程前に「デスノート」は既に銭形平次クラスに過去の話といった内容の記事を書いたのだが、まだまだ現代文明はそこまで行ってはいないようである。
 
 
改めて読みかえしてみると……え?これはやっぱりまだドラえもんの世界の話なの?と思いたくなるほどに現実はまだまだ遅れているのだろうか?(-“-)
 
Nシステム……思った以上に汎用性はないのかもしれない。

透明な恐怖

怖さを味わうメディアは様々あるが、ホラー映画やジェットコースターというものは初心者向きだと思う。
なぜならば一度始まってしまったら本人の意思とは否応無しに最後までノンストップで進むから。
 
これが不気味な絵本や怖い小説だとどうだろう?
 
自らの意思でページをめくることでしかストーリーは進まない。
つまり恐怖を選択し続けなければならないのだ。
同様にバンジージャンプや自力で歩かなければ先に進まないお化け屋敷にしても、より上級者向けの恐怖嗜好であることがわかる。 
さらにこれはゲームにも言えることで、「バイオハザード」を初めてプレイした時に「怖くて先に進みたくない。扉も開けたくない。安全な場所でひたすら助けを待つという選択肢がなぜないのか?」と真剣に呪ったものだった。
(開けたくないよ実際こんな扉。尚今回のテーマではこの画像よりも怖い映像はないので安心していただきたい)
 
スティーブン・キングの小説などは本当に読み進めるのが嫌になってくるほど怖くて、「ここでやめてしまったらどんなに楽なことか」と思ったりしながらも、怖いことが起こるとわかりきっている扉をソッと開けて読み進める姿勢が基本だ。
 
そんなホラー好きのみなさんがドMかつ確固たる強い意志の持ち主であることは間違いないだろう。
 

さてここ数回のブログで不気味な童話についての考察をしていくうちに、それらの物語の魅力の根源である「怖さ」というものについてより深く考えてみた。
同好の志と語り合うのも楽しいが、一人脳内自分会議をするのもそれはそれで楽しい。
 
「恐怖」と一言でいってもその種類は様々だ。
 
最も低レベルな恐怖感は、生理的嫌悪感を刺激されたり「バン!」と突然脅かされるような原始的な本能を刺激させられるような恐怖だろう。
見るに堪えない残虐な映像や、嫌いな昆虫が大量に出てきたりされるとどうにも抗えない不快な気分になる。
これらはある意味で「反則」だが、ホラー映画で敢えてこれをやらない映画は……やはり少ない(笑)。
なにしろこれらの怖さは「鉄板」だ。
これをやらずにいられない仕掛け人を責める気にはなれない。
 
しかし我々にしても対抗策というか、振り向いた瞬間に殺人鬼がいたりする「オドカシ系」については、慣れるに従って次第に楽しくなってくるようだ。
恐怖の対象が登場するのに十分な余白のあるカメラアングル、満を持しての登場に合わせた音楽のタイミングなどの「お約束感」は独特のグルーヴを感じられるようになり、次第に心地よくなってくる。
このグルーヴを天才的に操る監督の一人が例えばサム・ライミ氏で「死霊のはらわた」などは、そのあまりの怖さが最終的には笑けてくる不思議な映画だ。
(怖い画像しかないのでここは「ギャーッ」で代用するが、楳図かずお氏のマンガもまた笑いと恐怖の同居した独特の世界観を確立している)

そのさらに半歩上を仕掛けてくる映画は当然「より怖い」ホラー映画となる。
 
人間が恐怖に対して構えている時は「息を止めて見守っている状態」になるわけだが、大丈夫と思った瞬間に虚をつくように脅されたりすると、これは心底ビックリさせられてしまう。
このフェイント技をやられると、ホラー映画好きの僕であっても「うわぁ!」と情けない声を上げてしまう。
最近見た映画の中では「インシディアス」などはアクセントのタイミングがいちいち読めなくてビビらされた映画だった。
 
(amazonプライム会員は無料で見られます)
 

これらの定番の怖さと違ったさらにもう一段階上になるような心理的な恐怖感。
僕が一番好きな恐怖感覚は、やはり「透明な恐怖」と言うべき、実態のない掴みどころのない精神作用だ。
「得体の知れない」「理由はわからないけど怖い」といった説明の難しい感情こそに最大の怖さを感じている。
 
例えば街を散歩していて、その家の前を通るたびにいつも不吉な気分にさせられたとしよう。
奇妙な感覚だがなぜと言われても説明ができない。
だけどもなにかの違和感?怖さを感じてしまう。
多かれ少なかれそういった思いをされたことは誰にでもあるのではないだろうか?
(アメリカの「呪われた家」とくればこっち系でキマリだが…)
 
さらにその後古い新聞記事からその家でかつて殺人事件が起こりずっと空き家になっていたことがわかってまとめてゾゾゾっとさせられたとしよう。
 
この場合、後者の「原因がわかった瞬間の恐怖」が「論理的恐怖」に対し、前者の「理由はわからないけどなぜか怖かった」という恐怖、「得体の知れない怖さ」「張り詰めた雰囲気」「凍りついた空気」といったような表現をされる怖さこそが「透明な恐怖」だと個人的に思っており、そう命名している。
 
尚こういった第六感的な恐怖感というものが、実は無意識化の中で怖いことを既に知っていたけど忘れているだけ、といったことが圧倒的に多いであろうことも含めて「透明な恐怖」として分類される。
「直感」こそ記憶の蓄積、経験則によって生み出されるものだと思うからだ。
 

このブログでは過去にも実体験を元にした怪談などで数度語ってきていることではあるが、「恐怖」とは本来瞬間的なことであり辻褄の合っていないことである。
 
例えば知らない番号の着信が毎日決まった時間にくる。
気味が悪いから電話には出ない。
出たら最後1週間後に殺される「呪いの電話」だったら典型的なホラー映画になるが、現実のほとんどでは「街でナンパされたけどメンドーなので適当に教えた番号に律儀に毎日かけ続けているおバカな男の子」だったりが関の山だろう。
 
部屋に置いてある人形の顔の向きが毎日微妙に変わっているような気がする……
 
そんな些細なことも「透明な恐怖」は大好物な題材となる。
現実的には本人の過剰な思い込みだったり、あるいは家人が隅々まで掃除をする潔癖さんだったりするのだろうが、これが一人暮らしの女子のワンルームマンション内だったりすると、やはりホラー傾向が一気に高くなってくる。
変態大家さんが合鍵を使って毎日侵入していた痕跡だったりすると、それはそれでもはやホラーなんて言ってられない別の恐怖になってしまうが、なかなかどうして人形自らが意志を持って動いているといったファンタジー方向に発展することは稀だろう。
(ピンヘッドとゾンビと綾波レイが同居している僕のピアノの上だが、彼らが日々微妙に動いていてもまず気がつかない自信はある)
 

仮に霊的な存在が懸命にアピールをしていたとしても、できることが微々たるものでしかなかったら?
 
以前ZEPP福岡の楽屋でコンタクトレンズのケースが裏返るという微妙な違和感にこの「透明な恐怖」を感じたことがあったのだが、多くの場合はスルーされてしまうぐらいの弱々しい主張なのかもしれないし、その時に思ったことでもあるのだが、ほとんどの人には笑い飛ばされて終わってしまうことらしい。
http://jinxito.com/2016/01/26/backstage/(←久々に読み返したら書いた本人が「妖怪の仕業」で結論付けていて思わず笑ってしまった)
 
そうか!妖怪の仕業とすることで「透明な恐怖」は全部ほっこり系に打ち消すことができるのか!
 
……いやいやいや!それは本意ではない。
「透明な恐怖」を突き詰めて追い詰めてスタイリッシュな物語を作りたい!という本人の創作意欲まで打ち消してしまってはいけない(笑)

注文の多いブログ

僕が子供の頃に不気味だと思っていた童話を紹介した前回、リプライの中に「注文の多い料理店」を挙げる方が何人かいらした。
宮沢賢治といえば「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」などの作品が有名だが、多くの人はこの「注文の多い料理店」こそ最も印象に残っている作品なのではないだろうか?(いや『クラムボンはわらったよ』の「やまなし」だろうか?)
 
僕はこの作品を読む直前に、おおまかなあらすじを知ってから読むカタチとなった。
当時好きだったミステリー作家の「私が初めて出会ったブラックユーモア小説」といった内容のエッセイだったのだが、その紹介の仕方が実に絶妙で「何だこの面白そうな話は?」とすぐに文庫本を買って読んだのだった。
読了後はもちろん面白かったのだが、自分の中のインパクトは紹介されたエッセイの文章の方が怖いかつ面白く感じていたのも確かだった。
「注文の多い料理店」は、、、ご存知の方も多いかと思われるが、敢えて当時の僕の受けたイメージ通りであらすじを紹介してみよう。
 
二人の道楽者が山の中で迷いお腹が空いて途方に暮れていたところ「山猫軒」というレストランを見つける。
中に入ると細かく仕切られたドアに「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」「注文はずいぶん多いでしょうがどうか一々こらえて下さい」などと書いてある。
姿なきホストというわけだ。
注文は予告通り「髪を整え靴の泥を落としてください」「鉄砲と弾丸をここに置いてください」と細かく指示されながら奥のドアに進むようになっている。
二人は「作法の厳しい店だがもっともだ」といちいち納得し、ドアを開けては細かい注文に応じていく。
しかし「壺の中のクリームを手足に塗ってください」「塩を身体によく揉み込んでください」といったあたりでようやく事態を理解する。
注文の多さと内容は、料理を食べる自分達にではなく、料理される自分達へのものだったのだ……
 
といった感じで、僕が最初に読んだあらすじには姿なきホストの存在が誰であるかが書かれておらず、また結末にしても「自分たちが食べられることに気がついてしまった」という時点までだった。
そうなってくると童話や寓話というよりは紛れのないカニバリズム(人肉嗜食)となり、物語の凄味が増すことになる。現に僕は震え上がりつつも「うわー怖そう!」と思ってしまったのだった。
 
 
原文では相手が恐ろしい山猫であることを示唆しており、猟犬の突入によって術を破られる(山猫軒はタヌキの幻術のようなものだった)のはいかにも童話っぽい展開であるし、最悪の結末にならず二人は無事生還を果たすこともできる。
道楽者がこれまで狩りを無軌道に楽しんでいたこと、殺生をなんとも思っていなかったことなどの人物設定が冒頭部分にあるあたりからも、正しい寓話として構成された名作だと思う。
 
しかし僕の中では、それらの内容をあえて語らなかった紹介文の方、説明不十分であることに、さらなる恐怖を感じさせてくれていたことに、大いなる感銘を受けたものだった。
とはいえ無論原作のすばらしさを否定しているわけではなく、例によって何度読み返してみても不気味な物語であることは間違いない。
 
そして今になってこんなことを思ったりもする。
……もしかしたら僕のゾンビ好きの原点には宮沢賢治があったのかもしれない……そう思うと、B級趣味でしかないゾンビが幾分か高尚に思えてくるようではありませんか!←かなり苦しいこじつけ
 
尚、この「注文の多い料理店」も青空文庫で無料で10分程度で読める内容なので、再読の方も初読の方もどうぞみなさんごゆるりとお読みください。ー山猫軒ー
 
 

グリム童話やマザーグースの詩にも恐ろしいものがたくさんある。
僕が愛読していた「グリム童話集」は神奈川県から埼玉県に引っ越すときの道中に母に買ってもらった本だ。(そういうどうでもいいことをなぜかいちいち覚えている)
昭和の時代に普通に売られていたグリム童話というものは、子供向けであっても容赦のない内容だった。
 
「王子様は悪い猫の首をハサミでちょん切ってしまいました。ついでに魔女の首もハサミでちょん切ってしまいました。めでたしめでたし」といった凄惨なスプラッター描写が明るく唐突に出てくるのだ。
思い返せば当時の童話は「白雪姫」も「赤ずきん」も、ついでに「かちかち山」もとんでもなく残酷な話だった。
悪者は極悪非道であったので、だからこそ物語の最後にやってくる因果応報的な結末に納得させられることも多かったはずだ。
 
現在は表現の規制が多すぎて、特に子供向けの童話は内容の改変が酷すぎると聞く。なにかイビツな世の中になってしまったものだなぁと思わざるをえない。

不気味な童話たち

子供の頃の強烈な記憶というものはいつまでたっても忘れられないものだ。
ふと自分の中にある「怖いもの見たさ」の本質というか、キッカケのようなものを考えていたら、数冊の絵本や童話に行き着いたので今日はそれらを紹介してみたい。
 
 
ずっと心の奥底に引っかかっていた童話がある。
作者が誰だったか思い出せない。
ただただ不気味な世界観だけを覚えていた。
 
ナメクジがトカゲを治療するふりをしながら食べてしまう強烈な光景が脳内に焼き付いている。
「なんだか足がなくなったようですよ」とか「お腹が熱くなってきました。もうやめてください」と懇願するトカゲを「ハッハハ。なあに大丈夫ですよ」とかなんとか言いながらお腹や心臓を溶かして食べてしまうナメクジの描写がどうにも不気味なのだが、僕はこの童話を小学生の頃に教科書で読んだのではなかっただろうか?
 
ちょっと検索をしてみたらそれがすぐに宮沢賢治の「蜘蛛となめくじと狸」であることがわかった。
早速数十年ぶりの再読となったわけだが、この童話の不気味さを改めて認識したというか……子供の読み物としてはトラウマ級の凄まじさなんじゃないのか?とすら思った。
現在青空文庫で無料、内容的にも10分程度で読めるので、ぜひこの不気味な世界観を共有していただけたらと思う。
 
 
日頃の僕が勧めているようなB級ホラーとは違い、日本文学界が誇る文豪の作品なので、例え読後感想が最悪だったとしても文句を言われる筋合いはない(笑)。
 
(「洞熊学校を卒業した三人」は推敲された改定版。僕を含めたほとんどの人は過去にこちらを読んでいるそうだ)
 

この「蜘蛛となめくじと狸」よりもさらに不気味な印象だけが残っている絵本がある。
「ブレアウィッチプロジェクト」やMナイトシャマラン監督作品以上に明確に「森に入ってはいけない」という内容だけを訴えた絵本で、幼い兄弟が森の中で巨大な芋虫やわけのわからない生物に食べられそうになり逃げ回る話だ。
 
命からがら森から脱出できるのだが、振り返ると森の中でそれら不気味な生き物が蠢めきながらこちらをジッと見ているという身も蓋もなく解決策のない恐ろしい話だ。
こちらはかなり真剣に検索をしても作品を特定できない。
もしご存知の方、あるいはピンときた方がいたら是非とも教えていただきたいと願う。
 

 
そして僕の中では児童推薦書の定番「おしいれのぼうけん」以上にドキドキワクワクさせられつつも、やっぱり相当な不気味さを持った児童書だと思うのが「うちゅうせんにのるな」だ。
作者は「転校生」の原作者の山中恒氏。コミカルな要素などもあるにはあるのだが、とにかく怖い。
 
 
主人公の少年タカシがお母さんと大げんかをして家を飛び出すと、カタカナしかしゃべらない外国人のおじさんが「オメデトウゴザイマス」と話しかけてくる。
チューインガムの懸賞に当選したので宇宙旅行に行けるというのだ。
そして今すぐ団地の屋上から旅立てるらしい。
家に戻りにくいのもあってタカシは言われるがまま団地の屋上から宇宙船に乗ってしまう。(児童書というものは基本的に展開がとても早い)
クリーム色の壁の宇宙船内、窓からは離れていく地球が見えるのだが、あまりに現実感に乏しくあっけない。
思った以上に退屈な宇宙旅行は眠気を誘い、いつの間にか眠ってしまったタカシが次に目覚めた時には、もう地球がどんどん近づいてきていて元の団地の屋上に戻ってきてしまう。
夢だったのか騙されたのか納得のいかないまま家に戻ると、さっきまで怒っていたお母さんは大好物のハンバーグを作って待っていてくれた。
いつもは不機嫌なお父さんもニコニコしているのだが、大嫌いなイカの塩辛をムシャムシャ食べているし、会話も雰囲気もいつもとちょっと違う気がする。
なんか変だ。お母さんもお父さんもやさしいのだけども、なにかがおかしい……
 
「いつもと同じ日常のはずなのに些細な部分に感じる違和感」だったり「親しいはずの人が他人のように思える瞬間」といった、よくよく想像してみると結構な恐怖感が子供向けの読み物でありながらも存分に描かれており、同じテーマで相当怖いホラー小説に昇華させることが可能だろう。
 
宇宙船は地球に戻ったのではなく地球とは別の星に人間をさらっていたことが後半になってわかるのだが、それが見えてくるまでの微妙な違和感や雰囲気、主人公の不安な感情やお父さんやお母さんが別人にすり替わっていたことがわかった瞬間の恐怖感など…僕の中で特A級の怖さとして記憶に残っている作品だ。
 
入手の難しい絶版本なのでそれこそ数十年前に読んだきりなのだが、図書館に行けばあるいは再読のチャンスを得られるものなのだろうか?調べてみよう。
 

そして「最も救いのない絶望的内容の絵本は?」と、もしも尋ねられたら、
即答できる絵本がある。
(宮部みゆき原作の「悪い本」も相当怖いのだが…これはフェイントである(笑)
 
やはりここは「ねないこだれだ」にとどめを刺す。
 
 
夜の9時になっても寝ないような悪い子はおばけが連れ去ってしまうよ〜というシンプルな内容なのだが、普通こういった子供向けの読み物は救済措置のように「だから早く寝ないとだめなんだよ」的なエピソードがあるものなのだが……
 
このお話に限ってはおばけがやってきて自分もおばけにされてしまって手を掴まれおばけの世界に連れ去られてしまい、そこで話は終わってしまう。 
 
もはやこの絵本を読んだことのない日本国民もいないのではないか?
というほどに有名な絵本ではあるが、冷静に考えてみるとこれほどの恐怖もないのではないだろうか?本当に救いのないお話なんである(^^;
 
尚Googleの画像検索をかけてパロディー作品でゲラゲラ笑って恐怖を中和させてはいけない。
 
 
いろんな本を紹介させてもらったが最後に主旨を今一度言っておく。
宮沢賢治の「蜘蛛となめくじと狸」を是非読んでみてね(^^
 

オトナ

「森友学園事件」がここへきて次々と新事実の数々が浮かび上がり続け、いよいよキナ臭い展開を見せている。
億を超えるお金がからみ、政治家やワイロや官僚のからんだこうした事件が我が国では常に起こり続けている。
「腐敗」という言葉がずっと囁やかれ続け、改善されるどころかますます腐敗し続けているようにも思える昨今ではあるが、当ブログではそのような政治問題についての言及は一切しない。(あれ?)
 
今日は何を伝えたいかというと……オトナという生き物が案外いい加減でテキトーであるということだ。
 
以前にも書いたことがあるが、僕は人間というものは歳を重ねてさえいけば自動的に「オトナ」になれるものだと思っていた。
大人になればオトナの字を書けるようになり、オトナの付き合い方ができるようになり、オトナの感覚が身につくようになるのだと真剣に信じていた。
かっこいい字をサラサラと書きゴルフを趣味にし、、、的な一般的なオトナキャラに自分もなるものだと思っていた。
 
異変を感じたのは30歳を過ぎたあたりだろうか?
 
○自分の書く文字が中学生あたりの筆跡から何ら進歩が見られない。
○マンガ「ドラゴンボール」が普通に面白い(ちなみに50歳の今読み返しても間違いなく面白いだろう)。
○カレーライスに永遠にときめく。
○やりたくないことをサボって先送りしてしまったり、ズルをすることがある。
○他人を妬むばかりか、自分の弱点を隠すためにウソをついて自他共にごまかそうとする。
 
挙げればいくらでも出てくるのだが、要するに「オトナとしての成長」をしているように思えないことがあまりにも多すぎるのだ。
精神年齢の若さを自慢するちょっと痛いオトナというわけではなく、悪い意味で成長していないことが自覚できてしまう。
 
そして「四十にして迷わず」といった不惑の年齢に達しても何らそれらが変わっていないことをハッキリと自覚し、ある意味では迷わなくなった。
さらには「五十にして天命を知る」、様々な事実を受け入れられるようになった。
つまり、成長をしていないままの中途半端なオトナでしかない自分であることを、自覚を超えて認め、せいぜいその範囲内での効率化を目指すという視点を持つことができるようになってきた。……ようやく(笑)
 
 
しかし世の中のオトナ達、それも政治や大企業の中枢にいるような出世したオトナにしても、実はちゃんとしたオトナになれた人というのが案外少ないのではないだろうか?
むしろ人生をしくじることなくトントン拍子で生きてこられてしまった人であればあるほどに温室の中でヌクヌクと年を重ねてしまい、本当の意味でのオトナになる機会にめぐり合えないまま順調に偉くなってしまい、さしたる迷いもなくとんでもない巨額を横領してしまいました!なんて事件が毎年のように起こるのも、必然といえば必然のようにも思う。
 
ここ数年を振り返ってみるだけでもこういった汚職事件の報道は数知れない。
しかしそれですら氷山の一角でしかなく、似たような不正が今も無数に行われ続けていることだろう。
つまり、ちゃんとしたオトナになれなかった人が責任を背負わされるのは仕方がないにせよ、その責任を逆手にとった悪用をして自分だけズルをしようとする、甘い汁を吸おうとする子供っぽい人が相当数いるということになるのではないだろうか?
 
人間はそう簡単にオトナにはなれない。
そして一番手に負えないのは、それを自覚できずにオトナであるつもりになってしまっている間違ったオトナたちなのではないだろうか?
 
 
したり顔でこんなことを書いている僕にせよ、やはりキチンとしたオトナにはなれなかった残念な部類の人間になってしまうわけだが、幸いにして世を賑わすような大事件に発展する責任を負わされるような立場の人間にはならなかったようだ。
そういった意味では「悪いことをしないようにしよう」と思う以前にそもそも悪いことができないので、悩む必要のない幸せな人生を過ごしていられるとも言えるだろう。例えばそうだなぁ…
 
1億円の横領をしたくともできないのだ!(笑)(もっと言えば10万円をちょろまかすことすら思いつかない)
 
しかし「質素な自分でよかった」と、最近は素直に思えるようになってきている。
 

「大いなる力には大いなる責任が伴う」
ヒーローの背負う宿命は、お金持ちや権力者にもそのまま当てはまる。
ダークサイドに傾くのは簡単なことだし、オイシイ思いや甘い汁が人間は大好きだ。
偉い人であればあるほどに必要以上のチカラは敢えて求めないよう自分を律していかなければならないとも思う。
 
ビットコイン騒動でも感じたことだけれども、短期間に1億円をゲットできてしまった人は、同時に2億円をスッてしまうリスクをも強制的に持たされたようなものなのだ。
 
世界一貧しい大統領と呼ばれるムヒカ前大統領の言葉の数々が好きだ。
 
「貧しい人とは、少ししかものを持っていない人のことではなく、もっともっといくらあっても満足しない人のこと。大切なのは考え方です」
「お金でモノを買っているのではない。費やした時間をモノに替えているのです」
「私は貧乏ではない。質素なだけです」
 
今の日本にこういった考え方のできる政治家や官僚がどれだけおられることだろうか?
 
 
……あ!なんか結局社会派っぽい意見でしめてしまったが、たまにはこんなことも考えたりする程度のオトナを演じたくなるようである(笑)。

いめちぇん

10年ぶりぐらいにヘアースタイルを変えることにした。
ツーブロックの短い部分がいい加減伸び放題だったこともあって「どうせなら『伸び放題の短い部分?』に合わせて全体を切ってしまったらどうですか?」と美容師さんに提案され、「それでいきましょう!」とバッサリ切ってしまうことにした。
 
 
「え?同時にパーマもかけたの?」
と思われた方も多いであろう。
この10年間の僕はストレートヘアーをずっと維持していたからだ。
晴れて今回クルクルヘアーとなったわたくしなのである。
 
しかし実はここまで見事な天然パーマ全開の髪質をしており、ストパーをかけた部分の髪を完全に切ると、このようになってしまうのでありました。
 
10年ぶりの天パー全開の短い頭となったのだが、思いの外自分で自分の顔を見る機会が少ないので鏡を見る度に一瞬ひるむ昨日今日だが、すぐに慣れるだろう。
 
一番近いのは……茂木健一郎センセー?

断捨離

ここ数日、断捨離を敢行中の我が家である。
とにかく捨てる、とことん捨ててやる!
 
きっかけは自室の頭上にあるロフトがパンク状態になってきたことにその端を発する。
今の家に引っ越してきてもうすぐ5年になるのだが、ジワジワと増えていく荷物に対してあまりにも整理というものを怠り続けた数年間であった。
 
一時的に荷物を視界から追いやり忘れてしまえる「ロフト」という場所に退避させることで「とりあえずここに置いて後で考えよう」と問題の先送りが簡単にできてしまう環境が、結果的にかなりよろしくなかった。
さらには部屋とは別にある2畳ほどの「納戸」と、外に置いても問題のないものは庭にも置けてしまうという環境がさらなる悪循環を招いた。
 
マンション住まいから小さな一軒家に引っ越して感じた恩恵ではあったのだが、それら融通のきくスペースの存在は真綿で首を絞めるようにジワジワと生活圏を侵犯し続け、これらの空間が少しずつ「魔窟」と化していったのである。
「庭に小さな物置を設置しようか?」と考えてみたりもしたが、魔窟が一つ追加されるだけのことだろう。
あふれた荷物はやがて部屋の中にも積み上がりはじめ、「いかん!このままではゴミ屋敷になってしまいかねない!」と全ての元凶であるロフトに登って見たところ……5年前に引っ越してきた時に「とりあえず…」と未開封のまま置いておいたダンボールが10個以上そのままであることが確認された。
 
……他人事のように書いてはいるが、言うまでもなく全部自分がやってきたことでしかない。
約5年間開封していないダンボールの中味……それが何であれ日常に必要でないことは疑いようがないだろう。
5年間なくても困らなかったものだからだ。
 
かくして重い重い腰を上げての断捨離が静かに始まった。
毎年恒例の確定申告の書類の整理と並行して進められる大掃除…というよりは徹底的なゴミの分別作業だ。
 
「いつか使えるかもしれないもの」
「そのうち着手しようと曖昧に残しておいたもの」
「捨てるのはいつでもできるし」
「これだけは別物」
 
ダイエットに通ずる何かを感じずにはいられない(笑)。
問答無用で整理開始である。
 
11段のハシゴの上り下りを繰り返すこと100往復、本当にさっさと捨てればよかったものが山のように出てくる。
お約束のように「きれいな紙袋」とか「いかにも別の用途に使えそうな箱」なんかがガンガン出てくるが……数年ぶりに対面するそれらを見るたびに自分で自分がイヤになってくる。
使い道なんてありはしないし、仮にあったとしてもこんな奥底に仕舞われていたものを思い出せるわけがない。
ずっと使っていなかったモノ、家電やカバンや着てない服など含めてすべて処分することに決定したのだが……粗大ゴミの引き取りというのは案外バカにならない金額がかかる。
 
一点二点ならまだしも数十点、、、ざっと見積もっても1万円近くはかかりそうだ。
まだ壊れていないものも多いし……ここはメンドーくさがらずにリサイクルショップに問い合わせだ!
少しでも高く売る!という発想は捨てて「400円払ってゴミとして捨てるのならばタダでもいいから引き取ってもらおう」と思うことにした。
そして整理をしてリサイクルショップに持ち込んだ品々は……
結果として2万円近くの現金として戻ってきてくれた!
 
おおお!嬉しい!
 
ほとんどの品物は100〜300円だったが、モノによっては2000円、最大で5000円の値がついたものもあった。
1万円払って捨てるつもりが思いがけず2万円になってくれたので、ソフトバンク的言い回しをするならば……
「実質3万円の儲け!」てなもんである。
 
 
さて、ここまではいわゆる「自分にとって無価値のもの」なので話はスムーズだったのだが……
ここからが心情的にちとメンドーくさい。
スッキリした自分の部屋ではあるのだが、現在ダンボールがあと3箱ほど残っている。
そのどれもが「できれば手放したくない思い入れのあるモノたち」ではあるのだが……しかしどう贔屓目に見ても限りなくガラクタに近いものばかりでもある。
 
1.F1グッズ(主に1990年代のミニカー類)
2.好きなアニメのレーザーディスクボックス
3.映画のパンフレット
 
「1」に関してはあくまでも18分の1スケールのミニカーがほとんどで、「セカンドドライバーデビッドクルサードの乗るMP4/13」であるとか、「ヘビ顔のジョーダンプジョー197」といった、お世辞にもあまり価値のあるとは思えないものばかり(外箱も潰れておりいよいよ価値は低そうである)。
アマチュア時代のMシューマッハーのKARTミニカーのみ、ややレアといえばレアか?
一方で当時かなり真剣に集めたフェラーリのTシャツやキャップは前日に全部売ってしまった。がほぼ後悔はしていない。不思議だ。
尚、当時のチケットホルダーに入った観戦チケットやプログラムは永久保存である。
 
「2」はずっと持っていたい気持ちがあるにはあるのだが、既にLDプレイヤーを所有していないため再生は不可能(ビデオデッキをはじめとする旧世代のメディアプレイヤーも全て処分済み)。
「未来少年コナン」「エヴァ」「トップをねらえ!」辺りがどうにも捨てられずに残っている。全てDVDで買い直しているにもかかわらずなぜか手放したくない。不思議だ。
(日高のり子さんのサイン入り。これだけは売られんよ)
 
「3」は改めて全部を調べ直してみたところ、最古の映画が昭和63年(1988)の「AKIRA」なので、自分の映画史の中では比較的中世〜現代のものが多い。小中高の頃のモノは実家のどこかにあるのだろうか?
公開当時の「バックトゥザフューチャー」や「インディージョーンズ」のパンフが折れ目一つなく保存されていたのはちょっと嬉しい。
 
仕事関連のレアグッズもいろいろと出てきた。
わかる人にはわかるであろう「ハロウィンホテルのバスローブ」が未開封のまま出てきた。
うわー!今更実用できねーし!(これって2006年あたり?)
 
ちなみに同時期の「ハロウィンスリッパ」は当時職場のスタジオで実用しまくっており、「そんなに汚くなるまで履いてくれてありが……ってかいい加減洗ってくださいよ」と本人に苦言を呈されたことを思い出した(笑)
 
また「ark&ray」の業界配布用のカセットテープなんて恐ろしいサンプル品なんかも出土してしまった。
これは……売りに出したらいくらになるんだろうか?(ゴクリ……)
「ark&ray」はもう一つ、シリアル番号入りの数百枚だけ作られた「アナログレコード」というものが存在する。
「もしも売り飛ばしたら番号からお前を追跡してこの世界にいられなくしてやる!」という貞子レベルの呪いをかけられたレコードなので売ることはできない。
メルカリやヤフオクのチェックはしないように!いいな?絶対にだ!←
※念のためそんな恐ろしい品々は出品はもちろん譲渡することもできないっすよ(^^;
 

といった断捨離現場から中継でお伝えしました。
 
今回の断捨離と部屋の片付け…ただ闇雲に捨てただけでもなく、処分しようと数年間放置していた組み立て式のデスクを復活させ、コンパクトな折りたたみ式のテーブルと組み合わせたら、思いがけず鍵盤とPCキーボードの両立する環境が出来上がったりもした♪
なにごともやりすぎずにバランスよく着地したいものだが、上記三点のダンボールはきっとまたロフトに戻っていくヨカーン(笑)