透明な恐怖

怖さを味わうメディアは様々あるが、ホラー映画やジェットコースターというものは初心者向きだと思う。
なぜならば一度始まってしまったら本人の意思とは否応無しに最後までノンストップで進むから。
 
これが不気味な絵本や怖い小説だとどうだろう?
 
自らの意思でページをめくることでしかストーリーは進まない。
つまり恐怖を選択し続けなければならないのだ。
同様にバンジージャンプや自力で歩かなければ先に進まないお化け屋敷にしても、より上級者向けの恐怖嗜好であることがわかる。 
さらにこれはゲームにも言えることで、「バイオハザード」を初めてプレイした時に「怖くて先に進みたくない。扉も開けたくない。安全な場所でひたすら助けを待つという選択肢がなぜないのか?」と真剣に呪ったものだった。
(開けたくないよ実際こんな扉。尚今回のテーマではこの画像よりも怖い映像はないので安心していただきたい)
 
スティーブン・キングの小説などは本当に読み進めるのが嫌になってくるほど怖くて、「ここでやめてしまったらどんなに楽なことか」と思ったりしながらも、怖いことが起こるとわかりきっている扉をソッと開けて読み進める姿勢が基本だ。
 
そんなホラー好きのみなさんがドMかつ確固たる強い意志の持ち主であることは間違いないだろう。
 

さてここ数回のブログで不気味な童話についての考察をしていくうちに、それらの物語の魅力の根源である「怖さ」というものについてより深く考えてみた。
同好の志と語り合うのも楽しいが、一人脳内自分会議をするのもそれはそれで楽しい。
 
「恐怖」と一言でいってもその種類は様々だ。
 
最も低レベルな恐怖感は、生理的嫌悪感を刺激されたり「バン!」と突然脅かされるような原始的な本能を刺激させられるような恐怖だろう。
見るに堪えない残虐な映像や、嫌いな昆虫が大量に出てきたりされるとどうにも抗えない不快な気分になる。
これらはある意味で「反則」だが、ホラー映画で敢えてこれをやらない映画は……やはり少ない(笑)。
なにしろこれらの怖さは「鉄板」だ。
これをやらずにいられない仕掛け人を責める気にはなれない。
 
しかし我々にしても対抗策というか、振り向いた瞬間に殺人鬼がいたりする「オドカシ系」については、慣れるに従って次第に楽しくなってくるようだ。
恐怖の対象が登場するのに十分な余白のあるカメラアングル、満を持しての登場に合わせた音楽のタイミングなどの「お約束感」は独特のグルーヴを感じられるようになり、次第に心地よくなってくる。
このグルーヴを天才的に操る監督の一人が例えばサム・ライミ氏で「死霊のはらわた」などは、そのあまりの怖さが最終的には笑けてくる不思議な映画だ。
(怖い画像しかないのでここは「ギャーッ」で代用するが、楳図かずお氏のマンガもまた笑いと恐怖の同居した独特の世界観を確立している)

そのさらに半歩上を仕掛けてくる映画は当然「より怖い」ホラー映画となる。
 
人間が恐怖に対して構えている時は「息を止めて見守っている状態」になるわけだが、大丈夫と思った瞬間に虚をつくように脅されたりすると、これは心底ビックリさせられてしまう。
このフェイント技をやられると、ホラー映画好きの僕であっても「うわぁ!」と情けない声を上げてしまう。
最近見た映画の中では「インシディアス」などはアクセントのタイミングがいちいち読めなくてビビらされた映画だった。
 
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これらの定番の怖さと違ったさらにもう一段階上になるような心理的な恐怖感。
僕が一番好きな恐怖感覚は、やはり「透明な恐怖」と言うべき、実態のない掴みどころのない精神作用だ。
「得体の知れない」「理由はわからないけど怖い」といった説明の難しい感情こそに最大の怖さを感じている。
 
例えば街を散歩していて、その家の前を通るたびにいつも不吉な気分にさせられたとしよう。
奇妙な感覚だがなぜと言われても説明ができない。
だけどもなにかの違和感?怖さを感じてしまう。
多かれ少なかれそういった思いをされたことは誰にでもあるのではないだろうか?
(アメリカの「呪われた家」とくればこっち系でキマリだが…)
 
さらにその後古い新聞記事からその家でかつて殺人事件が起こりずっと空き家になっていたことがわかってまとめてゾゾゾっとさせられたとしよう。
 
この場合、後者の「原因がわかった瞬間の恐怖」が「論理的恐怖」に対し、前者の「理由はわからないけどなぜか怖かった」という恐怖、「得体の知れない怖さ」「張り詰めた雰囲気」「凍りついた空気」といったような表現をされる怖さこそが「透明な恐怖」だと個人的に思っており、そう命名している。
 
尚こういった第六感的な恐怖感というものが、実は無意識化の中で怖いことを既に知っていたけど忘れているだけ、といったことが圧倒的に多いであろうことも含めて「透明な恐怖」として分類される。
「直感」こそ記憶の蓄積、経験則によって生み出されるものだと思うからだ。
 

このブログでは過去にも実体験を元にした怪談などで数度語ってきていることではあるが、「恐怖」とは本来瞬間的なことであり辻褄の合っていないことである。
 
例えば知らない番号の着信が毎日決まった時間にくる。
気味が悪いから電話には出ない。
出たら最後1週間後に殺される「呪いの電話」だったら典型的なホラー映画になるが、現実のほとんどでは「街でナンパされたけどメンドーなので適当に教えた番号に律儀に毎日かけ続けているおバカな男の子」だったりが関の山だろう。
 
部屋に置いてある人形の顔の向きが毎日微妙に変わっているような気がする……
 
そんな些細なことも「透明な恐怖」は大好物な題材となる。
現実的には本人の過剰な思い込みだったり、あるいは家人が隅々まで掃除をする潔癖さんだったりするのだろうが、これが一人暮らしの女子のワンルームマンション内だったりすると、やはりホラー傾向が一気に高くなってくる。
変態大家さんが合鍵を使って毎日侵入していた痕跡だったりすると、それはそれでもはやホラーなんて言ってられない別の恐怖になってしまうが、なかなかどうして人形自らが意志を持って動いているといったファンタジー方向に発展することは稀だろう。
(ピンヘッドとゾンビと綾波レイが同居している僕のピアノの上だが、彼らが日々微妙に動いていてもまず気がつかない自信はある)
 

仮に霊的な存在が懸命にアピールをしていたとしても、できることが微々たるものでしかなかったら?
 
以前ZEPP福岡の楽屋でコンタクトレンズのケースが裏返るという微妙な違和感にこの「透明な恐怖」を感じたことがあったのだが、多くの場合はスルーされてしまうぐらいの弱々しい主張なのかもしれないし、その時に思ったことでもあるのだが、ほとんどの人には笑い飛ばされて終わってしまうことらしい。
http://jinxito.com/2016/01/26/backstage/(←久々に読み返したら書いた本人が「妖怪の仕業」で結論付けていて思わず笑ってしまった)
 
そうか!妖怪の仕業とすることで「透明な恐怖」は全部ほっこり系に打ち消すことができるのか!
 
……いやいやいや!それは本意ではない。
「透明な恐怖」を突き詰めて追い詰めてスタイリッシュな物語を作りたい!という本人の創作意欲まで打ち消してしまってはいけない(笑)